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東京の町工場に何が起きているのか

消えゆく東京のものづくり

TOKYO町工場HUBの事業を理解いただくためには、東京の町工場に何が起きているのかを伝える必要がある。それは過去40年間に渡って東京の製造業を揺るがしてきた地殻変動である。その変化の力は圧倒的で嵐のようにあらゆる物を破壊しながら、しかも静かに、何もなかったように進んできた。

あれほど沢山いた雀がある日見えなくなったように、静かに町工場は消えていった。東京の町工場の数は40年前に比べて10分の1まで減った。10万社近くあった東京の工場は、2020年の時点で1万社を割った。かつて100万人を超えた東京の製造業従事者は、見かけることさえ珍しくなった。日本の高度経済成長を支えた製造業は、音も立てずに消え失せようとしている。

数が少なくなっただけではない。ものづくりのあり方そのものが、全く変容してしまったのだ。その変化の波に個々の町工場はなす術もなく飲み込まれ、今も東京のものづくりの世界は縮小を続けている。

何が変わったのか、何が変えたのか

東京の製造業黄金時代

かつて日本が世界の工場を謳歌していた時代、東京の町工場も景気が良かった。良い製品を作れば売れるという時代、注文は絶えなかった。大企業と町工場は一体となって日本の経済を押し上げ、日本人の生活は豊かになった。

この時代のものづくりは、大企業の工場を頂点にした垂直型のサプライチェーンで構成され、元請会社から始まり、2次請け、3次請けと下請け会社に仕事が落とされていく。いわばピラミッド型の体制であった。自動車製造ではいわゆる系列組織が出来上がり、高度で革新的な日本のものづくりを支えてきた。

大量生産大量消費時代に競争力を持つためには、生産効率を上げてコストを抑え、価格で勝負できなくてはならない。規模を求める拡販活動と同時に、各分野・工程で専門性を高め、経験値を深めることで経験効果が最大限生かされるように仕組む必要がある。

そのため、生産工程は専門性に応じて高度に分業化され、細分化された。内部調達できないものは外注された。小さな町工場はその担い手としてうってつけだったのである。

東京の製造業の大半は家族経営で、従業員が五人未満のところが非常に多い。お父さんが社長で技術者、息子も技術を学んで手伝い、お母さんが経理、娘が総務兼雑用係。技術を磨き、設備を更新し、経験値を上げておけば、黙っていても上から仕事が降りてきた。そのため、営業は不要だった。ピラミッド型の体制の中で、作ることに集中することでコストを引き下げ、更に注文が増える好循環が生まれる。

メーカーにとって安定的で技術力の高いサプライチェーンを維持することは生産性に直結する。製品が売れれば売れるほど、ピラミッド構造は強固になり、底辺にある町工場はその構造を下から支えた。

年代で言えば、1950年代から1970年代まで。日本の高度経済成長の時代である。東京には10万社近い工場があった。東京の下町には、多種多様な加工を受け持つ町工場が集積した。道を歩けば、あちこちで機械の音が聞こえたという。1979年には葛飾区だけで8,153工場があった。現在の東京都全体の工場数と匹敵する数である。

ものづくり衰退の30年

蜜月の時代は、長くは続かなかった。

実際はすでに70年代に入ったあたりから製造業の働き手は減り始めていた。理由は製造業の機械化が進み単純作業が減ってきたことと、工場の拡大に伴い東京外への移転が進んだことである。しかし、変化の大きな転機になったのは1985年のプラザ合意である。円高が急激に進んだことで様相が一変した。

円高は日本からの輸出を不利にする一方、価値の高い円で海外投資がしやすくなった。その結果、東南アジアを中心に海外に工場を移転するメーカーが急激に増えた。相対的に人件費も安く、円高や為替の影響を請けずに製品を販売できるので、メーカーの海外進出は一気に進んだ。

例えばバンコク日本人商工会議所では会員数が急増した。

1985年4月時点の394社から89年には、最大の会員増によって696社となり、94年6月には1,000社の大台に乗り、2015年4月には1,600社を突破しました。

バンコク日本人商工会議所ホームページ

大企業が海外に工場を移転する場合、主要な部品メーカーも付いていくことが多い。現地法人を設立し、工場を建てて現地に新たなピラミッド構造を作ろうとする。しかし、このような対応には資金や人材が必要となる。零細企業が多い大半の町工場では、海外に行こうにも投資する資力も人材もなく、国内に取り残された。円高をうけて競争力を失い、大企業は現地で部品や加工サービスを調達するので、自然と国内の町工場の取引は縮小した。

町工場は大企業の従業員ではない。あくまでも部品を供給する一業者に他ならない。ことさら取引解消というほどのこともない。単純に発注がなくなるだけのことである。

まず少人数の零細工場が消えていった。技術の腕は立つが、営業には向かない職人が多い。ピラミッド型の構造に最適化した体制だったので、そこから離れるとにっちもさっちもいかなくなった。徐々により大きな町工場も出口を見出せずに廃業を余儀なくされた。

1983年には9万7千件あった東京の工場数は、1990年の時点ですでに4万軒に減っていたが、プラザ合意を受けて減少の勢いを加速させた。30年間の嵐のあと、現在では9900軒弱(2019年)にまで縮小した。ピーク時の10分の1、過去30年でも4分の1に減少し、景気低迷の影響で足元では更に減少していることが予想される。

東京都の工業統計調査報告書のデータを活用してグラフ作成

大減少時代の先に

東京の町工場が大減少したことは、単に数が少なくなったということだけでは済まない。その余波は様々な面で製造業に大きな影響を及ぼし続けている。

例えば町工場同士のつながりが寸断された。

ひとつのパーツでも1箇所の工場で完結できることは少なく、専門性を持つ工場が協力して完成させることが多い。それぞれの工程で専門の設備や人員が必要となり、一社で全てを抱えるのは効率的ではないからだ。

例えばプレス加工で金属で成形するところはプレス加工のみを行い、溶接、研磨、メッキ加工は別の工場に頼むような方法だ。相互に協力しあって成立していたところに、中の工場が一社でも廃業されると、途端に仕事が回らなくなる。

他に工場を探せば良いと思われるかもしれないが、そう簡単にはいかない。長年、阿吽の呼吸で仕事をやってきたので、さまざまな調整やすり合わせができており、余計な時間やコストがかからずに済んでいた。新しい工場に頼むとなれば、この調整を一からやり直さなくてはならない。

同じ業種であったとしても対応が難しいケースも少なくない。プレス加工と一口に言っても、車の部材のような大型のプレス加工、精密な板バネのプレス加工、アクセサリーや雑貨用のプレス加工では、それぞれ使っている設備も、求められている精度も、得意としている素材も全く違う。

また、生産を委託する方も、製造業へのアクセスを失った。

今まで委託していた工場が廃業となるとそれだけでも困るのに、何処に頼んで良いか分からなくなった。そもそもどのように作っていたかも分からないことも少なくない。新しい工場を探しあぐね、生産中止を余儀なくされることもある。

市場の縮小、後継者不足など、複合的な課題が絡まり合い、30年間の下降を続けた東京の製造業は、今も非常に厳しい事業環境にさらされている。

しかし、夜明け前が一番暗い、とも言う。焼け野原に芽を出す希望も見えてきている。その希望こそ、新しい時代のものづくりエコシステムへとつながっていく。


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