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世界との関わりのなかで


夜明けの東京の町並みを眺めながら、不思議と落ち着きが自分の心の中に流れ込む。自分の中を取り巻く混乱を解くのに必死であったが、町並みの風景を目の前にするとふとそういったことはどうでもいいのではないかという気がしてくる。

世界の中で我々はちっぽけな存在であるなんて言いえて妙だが、自分の内側の混乱から外側にある広大な風景に目を向けると、確かに自分の内面世界の小ささに気づいてくる。
しかし、小ささなんて自分の内面世界の一部にすぎず、その深部にどろどろしたものが宿っているからこそ、我々はそれに振り回されると同時に、自らの意志でそこに向かうのである(もちろんそこから逃げることも意志できる)。
内面世界とはいうものの、我々の内面世界はなんらかの形ですべて外部とつながっているのはいうまでもない。仕事での悩み、恋愛・友人関係の悩みは他者との関係性の中で起きるものであるのはもちろん、例えば勉強・研究で埒があかない、ひどい映画をみてショックを受けているといったことでさえ、自分の外にある何かと自分の関わりが引き起こしているのである。広大な外部世界の諸々の要素が我々の狭い内面世界に流れ込み、居場所がないがゆえに深く深く突き進んでいく。もちろん溢れることもある。そして、それらが我々の中に、混乱と歓び、絶望や希望を生む。

町並みの風景をなにも考えずに眺めるというのはどういうことであろうか。このときも外部世界の何かが我々の内面世界の中に流れ込んでいるのはいうまでもないが、何も考えずに(もちろん本当の意味で何も考えていないなんてことがあるのかというのは疑いうることではあるが)外の世界を眺めることで我々はその外部世界の全体性をまるごと受け入れている。その一方で、何も考えていないがゆえに、それは長く我々の心の中にとどまらない。しかし、逆説的に、忘却も含めてそれはなんらかの形で我々の中に残る(完全なる忘却も存在するが、忘れていると思ったものをふと思い出す、はっきり覚えていないものの無意識下で意識に影響を及ぼすといった事象もあるため、忘却も含めて外部世界が我々の内面世界に残る形のひとつだと考える)。このように考えると景色を眺めるというのは不思議な行為である。先ほど例に挙げた仕事、人間関係、勉強などと同じように我々と外部世界の関わりの一つの形ではあるが、我々の心へ流れ込む仕方、そして心に残りそこに影響を及ぼす仕方がかなり異なる。

思えば、広大で複雑性に富む外部世界のなかでなんとか生き残ろうとする我々は、(先ほど例に挙げた仕事、人間関係、勉強などのように)深く向き合うというやり方で世界と関わろうとするが、ときには景色を眺めるようなことなるやり方もとるべきではないか。異なるやり方をとることで、内面世界にバランスがもたらされ、平静を取り戻す。
同じように、人付き合いと一人の時間、インプットとアウトプットなど、我々の外部世界との異なる関わり方を並べてみると、(割合は人によって異なるものの)バランスをとることで自らの生に平衡をもたらしていることに気づかされる。

そんなことを考えていると、そろそろ戻ろうという気になったので、東京の町並みから視線を外しつつ、また別の外部世界に向き合う道程に向かうのであった。

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