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「成長したい!!」という言葉をめぐる不都合な真実


「成長したいです!!」

このセリフを僕はこれまでの大学生活で何度聞いたかわからない。同時に自分が何回言ったかもわからない(笑)。
意識高そうなサークル・学生団体の新歓で入部を希望する学生は決まってこのセリフを吐くし、就活でこのセリフを吐く人も多い気がする。(僕自身何回もこのセリフを使ってきたが)

ただ、私たちが望む成長って果たして何なのか、違和感とも疑問ともいえない微妙なものをこれまで感じてきたし、考えてきた。
最近ある事件をきっかけに改めてこの問いに向き合おうと考えた。それは塚本廉の経歴詐称事件だ。

正直にいうと、僕はこの塚本廉という人物をこれまで知らなかった。ただ、事件後に知り、いろいろ調べて、この方が「東大卒」「17社起業」「イスタンブール大学院卒」「トルコ親善大使」といった肩書きを提げて、いわゆる「意識高い系」界隈のカリスマ的存在であったことを知った。
彼の存在が偽りであったということは、学生間・社会であった「意識高い系」界隈に対する違和感が表出するきっかけとなった。それと同時に、上記の記事で述べられているようにこの界隈の虚像を暴きだしたといえる。

もちろん何事も主語を大きくしすぎるとよくない。高い志をもって、何かに挑戦する人を一概に否定すべきではないし、むしろそういった本当の意味で「意識高い」人は尊敬に値する。
それでは、我々が「意識高い系」界隈に対して感じていた違和感はなんだったんだろう。嫌み・妬みをもつ人がいるのも否定できない。ただ、そのもう一歩先を言語化してみたい。そして、そもそも「意識高い系」をどのように定義すべきか。

【1】学生団体のイベントで感じる違和感

僕は大学入ってから、いろんな学生団体のイベントや活動に出てきた。学生団体とは何かという点に関しては、ここでは漠然と学生が組織・運営する団体と定義しよう。


自分が所属する団体の活動にも参加してきたし、他の団体の活動にも参加してきた。そして、たくさんの人が、多くの場合スーツをきて、自信満々に何か話して満足そうにしてる姿を見てきた。僕もその一員なので、皮肉るつもりは全くないが、はたから見たらそういうふうに形容できるだろう。
さて、このような活動を通して、私たちは何を満たされるんでしょうか。
一概にいうのも怖いが、多かれ少なかれ「自己承認欲求」や「自分の有能感」、「他者よりも優れた存在でありたいという欲」ではないだろうか。(これについては以前の自分のブログでも触れている。)

さて、こういったもの「だけ」を満たしたいなら、手段は簡単だ。人の話を肯定的な態度で頷きながら、それっぽい感じでそれっぽいことを話せばいいから(スーツやジャケットを着ているとなおさらよい)。


こういった欲を満たそうと、いわゆる意識高そうな活動に参加する人は実に多い。ただ注意すべきは、こういった欲「だけ」を満たすためだったら、上記の条件を満たしていればなんだっていいわけだ。これが私たちが違和感と感じていたものの正体であろう。
つまり、成長したい、社会を変えたいって言っておきながら、非難の的になっている「意識高い系」界隈の彼らが望んでいたのは自分の欲を満たすことであり、その中身はいたって簡単に取り替えが可能な記号のようなものにすぎないのだ。

塚本廉の事件に対する数ある反応の中で、ものすごく共感したのが上記のものだ。
これだけ大きな虚構が生み出されかつ多くの人の共感を集めるあたりに、現在の若者たちの歪んだ承認欲求の一端が見て取れるといえよう。

【2】本質的なものを求めて

とはいいつつ、僕は人間のそういった欲を全否定しようと思わないし、それに紐づく行動をすぐさま全否定したくない。
なぜなら、最初から利他的な動機で動ける人なんてなかなかいないし、自分が本当に問題意識をもって当たりたい活動を見つけるのは簡単じゃないからだ。きっかけとしては全然いいと思う。

それでも、理想論とわかりつつも、私は何か本質的なものを見つけたいと願う。自分の欲を満たすだけでなく、自分の原体験や魂が紐付いた言葉を発信したいし、行動に移したい。

話は変わるが、僕ははたから見たら「意識が高そうな」活動をする一方で、それに対するアンチテーゼともいえる視点にもたくさん触れてきた。確かに成長しなきゃいけない、意識高い活動をしなきゃいけない、そんなふうに思う時期もあった。この考えが変わったのは、自分自身の経験と友人の視点だ。
昨年の秋くらいにふと何かが切れて頑張らなくなった。部屋で本を読んだり、ネットを見たり、暇な時間を過ごしながら、ふと「これも悪くない」って思ったのだ。別に、忙しくしなくても、意識が高そうな活動をしなくても、それなりにいい生活は送れるのだ。自分の趣味に没頭したり、遊んだりしてても、幸福を感じられる。
同時に、友達にそこまで意識高い活動に没頭しない人が一定数いたのが僕にとって幸いだっただろう。彼らとの交流を通して、僕は多様な価値観を知ることができ、自分の価値観を深化させることができた。「幸せ」というのは、決して一通りではないのだ。

さて、ここまでわかった上で、それでもなおやりたいことが「本質的なもの」だと僕は感じる。
「自己承認欲求」といった欲は確かに人間にとって根源的な欲だ。ただ、それを満たすためだけにする活動は虚しいものにすぎないし、それに気付いて他に幸せに生きる方法があるかもしれないという視点をまずは持つべきではないだろうか。
そうやって自分自身にアンチテーゼを繰り返し投げかけて、その結果残ったものが、自分の魂や原体験に紐づく本質的なものであろう。

【3】取り替え可能な記号からの脱却

違う価値観や視点があるのを知り、そういったものを十分に検討した上で、それでもなお自分が信じたいもの、それを僕はその人にとっての「本質」だと感じる。
そして、その確信に至るまでには、自分の原体験を掘り起こして再認識したりする必要がある。自分の体験に基づくものも同様に「本質」といえるだろう。

僕が、意識高いイベントに出て人の話を聞くとき、ふと「うん?」と思う瞬間がある。それは純粋に論理的に飛躍している場合や自分が理解できなかった場合も多いが、どこか心の奥底から出ている言葉だと感じない場合が多い。その違和感を分解したときに、他の視点があることを十分に検討してないか、自分の原体験がないどこかうわべだけのものに聞こえるかのどちらかだと気付いた。
結局、アンチテーゼとなりうる視点・価値観を絶えず自分に投げかけながら、自分の原体験を掘り起こし、真の意味で問題意識を持てる・やりたいと思えるものを見つけるべきではないだろうか。

しかし、その道のりは長い。そもそも全員が持てるものなのか、という疑問を挟むことも可能だろう。
ただ、ここで僕が最低限言いたいのは、それっぽい活動で虚構にすぎない自分の有能感・成長感に浸っちゃいけないということ。
学生団体のイベントでそれっぽいことを言えたところで、就活のグループディスカッションで活躍できたところで、社会は何も変わらないし、自分より有能な人、社会をよくしている人なんてたくさんいる。最低限の自己肯定感を持ちつつ、謙虚に常に自省を繰り返す、これが私が思う理想のあり方だ。

そして、いつの日か見つかるかもしれない自分にとっての「本質」を見つけられるまで、行動と自省を繰り返せる人、これが真の「意識高い」人ではないだろうか。




【※】追記

これを書きながら、自分に絶えずブーメランが刺さっているという意識がある。そもそも自分だって本質をまだ見つけられていない青二才の小僧なのだ。
これは僕自身が感じていた違和感の言語化であるとともに、自分自身への戒めでもある。

その上で、まだまだ未熟なこの時期に自分が感じたことが、自分の人生で役に立つ礎の一つになれば幸いだと思いながら、日々アウトプットの努力をこれからもしていきたい。

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