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私を知るための「占い」

占いを気にするようになったのはいつ頃だったろうか。占い師の叔父がいたこともあり、かなり子どもの頃から触れていた気はする。とはいえ、毎朝テレビの情報番組でやっている「今日の12星座占い」とか、新聞に出ている「今日の運勢」が、「占い」を意識した最初だったのではないだろうか。中学生くらいだったかなとは思う。

高校生のとき、ひょんなことから、陰陽五行や四柱推命、易などを極めた叔父から占いを学ぶことになった。元々超理系だった叔父は、宇宙の成り立ちやら、万物の仕組みやら、物理学的な角度から「占い」と呼ばれるものについて教えてくれた。それは面白くもあったが、感覚で生きている文系女子高生にはなかなかのハードルの高さで、よく居眠りをしていた。ただ、そのとき、叔父に言われた言葉は今でもよく覚えている。「お前にこれを教えているのは、いいとか悪いとかではなく、世の中にはいろいろな人間が存在していることを知ってもらいたいからだ」。叔父が教えてくれた占いは、何百通りもの組み合わせでそれぞれの人を見ていくものだった。それこそ昨今は多様性という言葉がよく使われるようになったが、今から30年近く前、叔父はこのことを女子高生の私に教えようとしてくれていた。それは、今もなお、心にしっかり刻まれている。

叔父に学んでいたとき、「自分」について知ることがとても面白かった。自分がどういう資質を持って生まれてきたか、どんな傾向があるか、先天的なものを知ることにワクワクしていた。自分を知り、受け入れ、好きになるという土壌ができたのは、占いを学んだこともひとつかもしれない(一番のターニングポイントは別のとき。それは次回書きます)。とはいえ、10代、20代は、占いというと相性占い、恋愛占いにばかり目がいっていたが…。

30代半ばになってから、「占い」は自分をより深く知るためのツールとなった。それこそ叔父にレクチャーしてもらったが、極める気はさらさらなく、自分のことが分かればそれでよかった。だから、西洋占星術、動物占い、マヤ暦、タロット、手相など、ピンっときたものは、片っ端から占ってもらった。ありとあらゆるものを受けているうちに、同じ種類の占いでも、占う人によって解釈やメッセージが違うと分かった。今でも同じ種類の占いを違う人に見てもらうということはよくある。ここまで聞くと、どれだけ悩みの多い人かと思われるかもしれないが、そうではないのだ。悩みがあって占ってもらうのではなく、どんな隠れた自分がいるかを知りたくて、ワクワクしながら行くということのほうが多かった。それもあってか、占いの結果に振り回されることもないし、自分軸がブレるということもない。そして、「いいこと」しか覚えていられないという便利な脳みそのおかげで落ち込むこともない。

さて、私に占いを教えた叔父は、その後借金を残して行方不明になるなど、とんでもない自由人で、親戚中に迷惑をかけている。でも、信じられないくらいケロッとして、みんなの前に現れたりする。この人のことはまた追々書くつもりでいるので、詳しくは書かないが、「いいとか悪いとかではなく、世の中にはいろいろな人間が存在している」とかつて叔父が言ったのは、「世の中には俺のような人がいる。でも、ちっとも悪くないんだ」という弁明だったのかもしれない。




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