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『ボナペティ! 臆病なシェフと運命のボルシチ』 試し読み 2(全8回)

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「……何か?」
「何か、じゃないわよ」

 佳恵は開き直って肩をすくめた。「作ったものを粗末にされる悔しさっていうのは、私にもよくわかります。学生のころですけど、飲食店で働いたこともありますしね。でも、それをそのままお客にぶつけるってどうなんですか」

 突然割り込んできた女に、シェフは戸惑っている。カップルはもちろん、壁際ではお菊さんまで腰を浮かせている。

「なんなんだ、あんた……。悪いが、ここは俺の店なんでね。何をしようと関係ないだろ」
「でもそのおかげで今、私まで気分が台無しなんですよね。お怒りはごもっともですけど、他のお客まで巻き込まないでくれません?」
「なんだと? そっちから勝手に巻き込まれておいて。うちの店が気に入らないってんなら出てってくれ。今すぐ」
「ああもう、そういうことじゃなくってね。私は店側の姿勢として……」

 このわからず屋の頑固オヤジめ。

 内心毒づくうち、鳴りをひそめていた苛立ちがよみがえってくるのを感じる。私、今日は厄日なんじゃないの? そんな気がすると同時に、思い出したくもない半魚人の薄笑いが脳裏をよぎる。

 ったく、どいつもこいつも……。

 人を嵌める奴もいれば、店をだめにする奴もいる。

 立ち上がり、グラスのワインをひと息に飲み干すと、寝不足の身体に存外酔いが回っていたようで、目の前の景色がぐにゃりと歪んだ。

 はらはらと成り行きを見守るニシダの気配を感じつつ、タガの外れる音を、佳恵はどこかで聞いた。

「そういうところなんじゃないの」
「は?」
「そういうところが、お客を遠ざけてるんじゃないかって言ってんの。料理はさておき、客をもてなそうっていう気持ちがこれで感じられると思う? お客さまは神さまだとまでは、私も思わないけどさ。客に喧嘩売るわ、欠品は放置するわじゃ、客を舐めてると思われても無理ないでしょ」
「……あんただったか」

 チーズ盛り合わせを頼もうとしたのが佳恵だと、シェフは気づいたらしい。

 だが彼は、悪びれるどころか嘲笑うように口元を緩めると、「ご不満なら別の店へどうぞ」と片眉を動かして寄こした。

「欠品対応については申し訳ないが、うちはそういう方針なんでね。『なんでないんだ』と言われましても、ないものはないんだからしょうがない。すべて完璧に揃える余裕はないんだ、うちみたいな零細店には。あいにくとね。それに、ほらそこ、『メニューはその日の仕入れによる』と注意書きがちゃんとあるでしょう? ……ああ、でもそうか、酔っぱらいに読めるはずないわな」

 まさかの挑発に、佳恵はあんぐりと口を開く。

「……だっ、だったら、あんたが引き継ぐ前の店はどうなのよ!?」
「どう、とは」
「前はできてたことが今はできないって、それもおかしな話でしょうよ。同じ店舗で、常連客がいっぱいいる状態で引き継いで、言ってみればお膳立ては完璧だったってことじゃない。なのにどんどん客が減っていって、メニューの維持もできないほどになった。それってつまり、あんたの経営に難があるっていう証じゃないのよ」
「――なにおぅ!?」

 シェフは般若のように両目を剥く。

「あの、シェフ、お客さま……」
「黙ってて」「黙ってろ」

 ふたりからぴしゃりと言われ、ニシダは怖々と後ずさっていった。

 そうまで言われちゃ我慢なんねえ。言われるぐらい何さ、こっちは贔屓の店を奪われたも同然なんだから。てめぇみたいなクレーマーが店を荒らし回るせいで……! なんでもクレーマー扱いして、耳を塞ぎたいだけのくせして…………!

 シェフも佳恵も、完全に頭に血が上っていた。

 けれど――だって――、私も悲しかったのだ。

 好きだった店が様変わりしてしまったこと。あの居心地の良さは失われ、くつろぎに満ちたひとときも、口の中が小躍りするような美味しさも、すべて過去のものになってしまった。

 嘆いたところでどうしようもない、やり場のない怒りだと理解しながらも、今だけでいいから惜しませてほしい。そう強く思った。ああ、こういうのを悪酔いって言うのかも。

「お、お客さま、どうか落ち着いて」

 気がつくと、佳恵は店の真ん中にいて、後ろからニシダに羽交い締めにされていた。

「はーなーしーてえぇぇぇ」
「ニシダよくやった」
「危ないですから、ね、お客さま、お願いですから」
「いいぞ、そのまま抑えとけ」
「やめてって言ってんでしょおおぉぉぉ!」

 意外と頑丈だった腕から逃れるべく、佳恵は必死に身をよじる。
 すると、しばらく揉み合ったのちに、固定されていた肩がいきなり自由になった。

 ――やった、離れた。

 そう思ったのも束の間、すぐ足元でパリーンと音がした。

 おそるおそる床を見下ろすと、タイルの上には見事に割れたワイングラス。腕をぶん回した拍子に当たってしまったのだろう。

「ごめんなさ……」

 とっさに謝ろうとしたものの、視界に入ったシェフの拳は小刻みに震えていて、

「ええい、出禁だ出禁! あんたは金輪際うちの敷居はまたがないでくれ!」

 怒鳴り声とともに佳恵は店から締め出された。

「――あたっ」

 さらに遅れて飛んできたバッグが、後頭部に直撃する。

 夜のアスファルトに鼻先をぶつけかけ、四つんばいのまま「何よ!」と睨み上げた佳恵の目の前で、ドアは無情にも勢いよく閉められた。

 何よ何よ何よ、せっかくの名店を台無しにしといて、えっらそうに。
 佳恵はドアに向かって叫んだ。

「頼まれても二度と来ないっつーの、こんな店!」


→次回に続く

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