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『ボナペティ! 臆病なシェフと運命のボルシチ』 試し読み 3(全8回)

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     * * *


 午後十一時半。西田健司は自宅アパートに帰り着くなり、疲労のこびりついた身体をベッドに投げ出した。
 ぼふんと音を立て、ワンルームの壁に向き直る。

 疲れた……とにかく疲れた……。

 もはや頭に回る糖分もないのか、そんな考えしか浮かんでこない。体力的に楽な仕事ではないが、今日はことさら辛かった。

 ――あの女性客。

 ワイングラスがひとつだめになったうえに、あわや乱闘騒ぎになるところだった。すぐに挑発に乗ってしまうシェフもシェフだけど、あの女(ひと)、よほど嫌なことでもあったんだろうか。仕事帰りっぽかったもんな、きっとそうなんだろうな、と重い息を吐く。

 健司は壁に向かったまま、目線だけ上に動かした。

 パイプベッドのフレーム越し、壁際の頭上に書棚が見える。ここに入居した当時、余裕を持って設えたはずなのだが、今やどの段も料理関係の本で埋まっていた。

 調理師学校時代に読み込んだ専門書や、有名シェフのレシピ集。はたまた歴史書なんかもある。

 十一年前に上京してからこっち、蔵書ばかりが増えているけれど、それを意識すればするほど迷いも深まる。

 ――僕はいつまでこんなふうにくすぶっているんだろう?

 結局その日も、健司はじめじめした気分から逃げるように寝返りを打った。そろそろシャワーを浴びて寝なきゃ。明日の朝も早い。

 そうわかっていながら、往生際悪く寝転がっていると、テーブルの上に放り出してあったスマホが震えた。首を伸ばして覗くと、届いたメッセージは二番目の姉・椿からである。
 
“あんた、次はいつ帰ってくっと?”
“来年の日取り、あんたも来らるるごと決めたかとやけど”
 
「……そう言われてもなぁ」

 長崎弁丸出しの文面を見据えたまま、ひとりでに唸り声が漏れた。

 そういえば、先日母から小包が届いたとき、『椿が婚約しました』と手紙が入っていた気がする。『式を挙げるか、食事会だけにするか迷っているようです』とも書かれていたような。

 当然のごとく、健司も出席者としてカウントされているようだけど、東京から長崎への帰省で日帰りはキツい。

「三日あれば助かるけど……。そんなに休めるかな」

 僕抜きでやってくれてもいいよ、というのが本音なのだが、それを口にするのは自殺行為だ。あんた何考えとうと!? とか、それが姉ば祝福しようとする弟ん態度!? とか、ごうごうと非難を浴びせられるに決まっている。一家のヒエラルキーの最底辺にいる身は辛いのだ。

 健司はしばらく迷ったあげく、スマホを操作した。
 
“来年なら、休みやすいのは五月の連休かな”
 
 だけどそもそも、僕の気力はそこまで持つんだろうか?
 いつまであの店で働くんだろうか――と、無意識にカレンダーを思い浮かべながら。


=====

 
 翌朝八時、健司は欠伸を噛み殺しながら自転車で《ルージュゴルジュ》に乗りつけた。

 裏口に自転車を停め、渡されている合い鍵で裏口を開ける。岩下シェフが出勤するのは九時過ぎだが、それまでにすることは多い。

 店内やトイレ掃除、野菜洗いに皮むき。いまだ包丁を握らせてもらえない代わりに、雑用はすべて健司の仕事だ。あらためて考えると朝から溜め息が出そうになる。

 これが以前の活気のある店だったら、苦とも思わず働けていたかもしれないのに……。

 ふたたび詮ないことを考えそうになり、健司は強く首を振って雑念を追い出した。
 真剣に向き合ってしまったら、もう働けなくなるかもしれない。そんな危機感のようなものがうっすらと、だがたしかに、胸の内にある。

 健司が《ルージュゴルジュ》のコック募集を見つけたのは、二年前の十二月。調理師専門学校を卒業後、洋食屋やカフェを何年にもわたって転々としていたのだが、やはりいつかはフレンチに……と思い定めた矢先のことだった。

 健司はその日、布団にくるまったまま調理師専門の求人サイトを眺めていた。
 業態をフレンチに限ってしまうと、検索に引っかかる数もぐっと少なくなる。どうせ無理だろう、とその日もあきらめ半分でサイトを覗いてみたのだが、その『新着』の文字に気づいた瞬間、ベッドから転げ落ちそうになった。

 ――嘘だろ、《ルージュゴルジュ》って……あの有名オーナーシェフの店だよな!?

 柄にもなく興奮した健司は、すぐさま面接を受けた。だが、合格通知を手にして意気揚々と働き始めたわずか数日後、若きシェフは病に倒れた。

 結果、憧れの人からはろくに教えを受けられず、入れ違うように店を引き継いだのがあの気難しい岩下シェフである。降って湧いたような幸運は、瞬く間に不運へと変わったのだった。

 そして本日のシェフはというと、出勤時点からすでに苛立っていた。
 正直言って、ピリピリしているのはめずらしくもなんともないのだが、今日は“話しかけるな”というオーラが全身から発せられていた。

「――西田」
「あ……どっ、どうぞ」

 ランチメニュー用の紙とペンをすばやく手渡す。シェフはうなずきもせず、店の中央のテーブル席にどっかりと座る。

 白髪交じりの頭を掻きむしり、ああでもないこうでもないと本日のメニューを考え出す――まではいつもの流れだったのだが、

「……ああっ、クソッ」

 今日はいくらも経たないうちに、五つも六つも書き損じの紙玉が飛んできた。

 昨日、あの女性客から受けた非難が地味にこたえているのかもしれない。あの人、本当になんてことをしてくれたんだよ。今日一日この調子だったら大変だぞ?
 健司は溜め息をつき、厨房を抜け出すと、床に転がった紙玉をこっそり拾い集めていった。

 裏口のドアがすすすすっと開いたのは、紙玉を捨て、作業台に戻ったときだった。

「おはよう」

 遠慮がちに顔を出したのは、シェフと二十年以上連れ添っている幸子夫人だ。業務用スーパーに立ち寄ったり、朝のこまごまとした買い出しをするのは彼女の役目である。

 ――シェフの機嫌は?

 目線で尋ねられはしたものの、健司は悄然と首を振るしかなかった。困ったわね、困りましたね、といつものように苦笑し合って、じゃがいもをスライサーで延々と千切りにする作業に舞い戻る。

 ……だがしかし。

 ボウルに山となったじゃがいもを眺めるうち、健司の気分はまたも沈み始めた。
 こうして手間暇かけて準備したところで、いったいどれだけが客の口まで届くんだろう。

 プライドが目隠しになっているらしく、シェフの読みはたいがい外れる――つまり毎回大量に残ってしまう――のだが、どうせ閉店後に廃棄するのだとわかっていながら作るのも辛い。

 バゲットにしたってそうだ。
 健司が働き始めた当初、バゲットは日に四、五本は仕入れていたように思う。けれどそれも徐々に減っていって、今では一本きり。幸子が毎朝、近所のパン屋から調達しているけど、それでも余らせてしまうこともある。

 健司の予想では、店の経営はこの半年でかなりの危機に陥っていた。売上のことは何も知らされていないが、客の入りを見れば一目瞭然だ。

 ――そう。

 あの女性客が鋭くも見抜いたように、店が傾きかけているのは、たぶんシェフの腕前の問題ではないのだろう。

 自身のこだわりを客に押しつけ、せっかく味を気に入ってくれていた客をも閉口させ、何か指摘されるたびに「不満があるなら他店へ行けばいい」と居直ってしまう頑固さ。

 間違いなく、それが原因だと思うんだけど……。
 言っても無駄なんだろうな――と健司が肩を落とすやいなや、

「おい、手が止まってるぞ!」

 すかさずホールから怒声が飛んできた。

「はっ、はい!」

 健司はびくりと背筋を伸ばし、次のじゃがいもに慌てて手を伸ばした。

→次回に続く

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