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映画『ゴジラ』(初代)の感想

※初代『ゴジラ』のネタバレがあるので注意!

最近『ゴジラ-1.0』を観に行ったのでせっかくだし初代も観てみた。なので今回はその感想を書いていこうと思う。

出てくる俳優さんが全員渋い。約70年前の作品なので出演している人はほとんど亡くなっているか、生きていたとしても相当高齢だと思うが、70年近くも昔だと風貌が全然違うように見える。村長っぽい人とか本当に村長感があって生々しい。今だったらもっとアニメ的なキャラ付けする方向性になりそうだけど当時はリアル志向が強めという印象。

冒頭から十数分は人間ドラマパートが続き、ゴジラが登場するまでの間はひたすらにタメの時間が続く。いきなりアクションシーンに入る映画も良いと思うが、個人的にはこういうタメを作ってくれた方が好みではある。やばいんじゃないかという雰囲気を徐々に醸成していき、ゴジラ登場でそれを爆発させる。その雰囲気作りはうまかった。

ただやはり肝心のゴジラについては若干チープに感じてしまった。映像を止めてみるとかっこよく見えるカットはあるけど、動くとやはり安っぽく見えてしまう。作られた時代が時代なので仕方ないとは思うけど、今の映像技術に慣れていない当時の人はこの映像をどう感じていたのかは気になるところ。

ただ、鉄塔からマスコミが落ちるシーンや家が崩れ去るのを中から映しているシーンなどは迫力があった。『ゴジラ-1.0』の時も思ったけどゴジラが暴れまわるシーンよりも二次被害としての現実にありそうな崩れ方をする方が恐怖を喚起させられる。

テーマ自体は明瞭で、オキシジェンデストロイヤーという兵器を作り出してしまった芹沢博士がその兵器を世に出してしまって良いものかというように葛藤する部分がメインに据えられている。最後は芹沢博士が命綱を自ら切ってゴジラとともに死ぬという内容になっている。この選択をした理由としては設計図を破棄したとしてもオキシジェンデストロイヤーという兵器の製造方法は芹沢博士の頭に残っているため、絶対にこの兵器が使用されないように自ら死を選んだのだと思われる。

ここでオキシジェンデストロイヤーは明らかに人間文明を破壊する兵器として描かれている。すなわち原爆や水爆といった兵器の比喩だ。これは自分の解釈というよりは作中で直接的に同じようなものだと言っていたので間違いないと思われる。結構重いテーマだと思う。

作中から読み取ったメッセージを端的に述べると以下のようになる。「科学者が人類を破壊しうるレベルの兵器を作り出したら発表するかどうかを検討し破棄も考慮に入れるべきだ」というメッセージだ。

ただこれは結局のところ科学者自身の倫理に任せるしかないという話に集約させているのでどうにも現実味があるのだろうかという風に感じる。たいていそういう兵器を作り出すのって企業とか国レベルの集団だし、個人判断でどうにかなるものなのだろうかという疑問がある。

そういった破壊兵器を作り出すことに有用性がある以上は流されて作り出してしまうのではないだろうか。映画ではたまたま個人がそういったものを作り出したので、個人判断で破棄を検討できるが、集団だったらそうはいかないだろう。集団で兵器を作り出す場合、作り出す個々人にも利益はあるわけで、そういった利益や自らの生活をはねのけてでも人類を破壊する兵器を製造するべきでないという判断を集団の中でさせた方が納得感がある気がする。

頭の中にある設計図すらも自らの死によって葬り去るというラストは確かに衝撃的だとは思う。ただ芹沢博士自身が世捨て人的なので利益や生活をはねのけるという感じではなく、むしろ死ぬことでかっこよくなってしまっている。芹沢博士自身にマイナスが見えないというか生活に対する責任がないので自己犠牲で失ったものがないように見えてしまう(変に家族に対する責任などを作り出し死ぬという判断をさせると無責任に見えそうなのでさじ加減が難しいけど)。

実際に破壊兵器を作ることに抗う場合はマイナスなことしかないと思うのでなんとなく釈然としない気持ちが残るのである。

「頭の中にある設計図すらも自殺により葬り去った」という点と「ゴジラを命を賭して倒した」という点を混在させていることにより前者を美しく見せているところがどうにも釈然としない。どういうことかというと、前者の「設計図を葬り去る」という行為が後者の「命を賭して倒す」という行為により美化されてしまい、前者の行為におけるマイナス点が無視されているように見えるということである。

ここでいうマイナス点とは「設計図が葬り去られる」という技術的損失ではなく、「破壊兵器を世に出さない」という大変さのことを指している。上に書いたように「破壊兵器を世に出さない(破壊兵器を作ることに抗う)」という行為は基本的に発表する個人にとってはマイナスしかないと思われる。発表すれば技術者として有名になれるだろうし、組織の中で作れば報奨金がもらえる場合もあるだろう。それに抗うのは明らかに個人にとってマイナスである。

そういった抗うマイナス点を上記2つの行為を混在させることによって有耶無耶にしているのはなんとなく釈然としないというわけだ。むしろ自己犠牲を美しく描くことにより退廃的だった芹沢博士が英雄として名が残るというある意味ではプラスに転じてしまっている。マイナス点に真っ向から向かい合わないと作品のメッセージとしてなんだか真摯じゃないという感じがしてしまうのである(これは自分だけかもしれないが)。

もちろん芹沢博士の自己犠牲のかっこよさに心打たれる面も少なからずあるけど、それで解決するのはどうなんだろうという気持ちが混在している感じ。

ただここまで書いてみて思ったけど、こういったことをいろいろ考えられるということだけでも面白い問題提起をしている作品なのかもしれない。なのでここまで長く続くシリーズとなっているのだろう。

……と思ったけど、昔と今の作風は相当違うのでやはりゴジラという怪獣が特撮ファンにウケる見た目をしているだけなのかもしれない。なんにせよ他の作品も気になったのでいくつか見てみようかなと思う。

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