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”農”に坐すvol.2━キュウリみたいな人

前回に引き続き、兵庫県にある安泰寺の元住職、ネルケ無方禅師について綴ります。

”お前”が安泰寺なのだ

禅道に惹かれてはるばるドイツから修行のために安泰寺を訪れたネルケ無方さん。
「人は何故生きるのか」ご自身が幼い頃から抱える命題の答えを禅から見出したいという動機から、巡り巡って安泰寺の門を叩いた訳ですが、いざ入門してみると、さて、何をしたものか分かりません。
そもそも馴染のない日本で、さらに都市部から隔絶された山奥にあって、「これからどうしたらいいんだろう?」となってしまうのはむしろ当たり前の感覚かと思うのですが…そこはやはり禅寺。お師匠から返って来たのはさらに謎を深める、まさに禅問答でした。

「何をすればいいですか?じゃない。”お前”が安泰寺を作るのだ。”お前”が安泰寺なのだ。」

”お前”が安泰寺だと言われても…首を傾げるネルケさん。お師匠の真意を図りかねてしまいました。何だか良く分からないところに来てしまったぞ…。

またある時のこと。安泰寺では禅修行に勤しむ他に、日々の暮らしのための作務をそれぞれが担当することになります。ネルケさんは炊事の担当になりました。もとより料理が得意な訳でもなく、まして日本料理のことなど全く分からない。本人の得手不得手に全く関係なく役割が分担されるのも安泰寺ならではですが、当然ながら失敗ばかり。兄弟子からはコテンパンに叱られます。
「私は料理を学ぶためにここに来たんじゃない…!」ネルケさんは反発します。当然の思いだと思います。ですがそんなネルケさんに対して、またお師匠から一言。

「”お前”などどうでもいい。お前のやりたいことなど、どうでもいいのだ。」

ますます謎が深まるばかり。
”お前”が安泰寺なのだ!と言われる一方で、”お前”なんかどうでもいい!と一蹴されてしまう。お師匠さんは一体何を言ってるんだろう?

その答えを教えてくれたのは、畑の野菜達でした。

キュウリみたいな人

安泰寺では自給自足のため、参禅者全員で畑を耕しながら修行の日々を送っています。

「安泰寺で求められているのは、キュウリみたいな人なんです。」ネルケ師は言います。

キュウリみたいな人?何のことでしょうか。

「日本人には特に、トマトみたいな人が多いです。支柱を立ててそこに誘引してくくりつけて、支えてあげないと立っていられない。雨にも打たれ弱いから、雨よけも作ってあげないとすぐに実が割れてしまう。いろんなお世話が必要です。」
日本人はトマト。何だか耳の痛い話ですが、安泰寺ではそれじゃいけないのだとのこと。

「かと言って外国人がキュウリみたいかというと、それも違いますね。海外からきた人はとても自己主張が強い。言うなればカボチャみたいな人が多いです。支柱に支えられて上に伸びるのではなく、横に横に広がります。俺が俺がと縄張りを広げて、場合によって周囲の野菜たちを害してしまう。」
外国人はカボチャ。かつてのネルケ師もそういう傾向があったのかも知れません。

「安泰寺ではキュウリみたいな人を求めているんです。支柱に張られたネットを、自分で手繰り寄せて、自分で上へ上へと伸びていく。この場合、”支柱”というのはつまり”仏法”です。仏法一つを支えにして、それを自分で掴んで成長していく。そんなキュウリみたいな人が安泰寺には必要です。」

なるほど面白い例えです。
支えに括りつけてもらわないと立つことができないトマト。支えを必要としないで横へ横へと広がろうとするカボチャ。そうではなくて、支えを自ら手繰って伸びるキュウリのようになりなさい。

「もちろんトマトやカボチャが駄目だということではないのですけれどもね。畑の中にトマトがあってカボチャがいて、キュウリがある。バランスが大切ですよね。」

日々の坐禅修行に勤しむ傍ら、農作業を通して野菜を育てる作務の中にも仏の教えが息づいていました。暮らしの全てが、禅。

自然=禅、とも言えるのかもしれないですね。

あなたは、どんな野菜みたいな人でしょうか?

次回はネルケ無方師から見た日本。
日本人は”おかず”ばかりで”主食”がない、という切れ味鋭い指摘について綴ります。



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