【読書記録】世界から猫が消えたらなら
今回は、川村元気さんの、"世界から猫が消えたなら" です。
本しか読んでないですが、気が向けば映画も見てみようと思います。
読む前に
川村元気さんの作品、億男は読んだことがある。が、あまりちゃんと覚えていない。自立して生活していなかった、親のお金で生活している高校生の私には、あまりにも想像しがたいことが多すぎたのかもしれない。
初めて読んで
この人は私なのかなと思った。
流石にそれは嘘だけど。私が電車に揺られたり、雨の中傘をさして黙々と歩いていたりする時に、頭の中をぐるぐると回っていることたち。それに近いことたちが、OOが消えた時、という物語を通して綺麗に言葉として、物語として、出力されていた。読みながら、そう、そうなんだよな。と、内心激しくうなずいていた。この本に関しては、珍しく、読んでいる最中も私はちゃんと私だった。
と言うのも、私は基本、本を読んでいるときに自分の輪郭を失っているような感覚を覚える。それが好きで本を読む。自分というものの人生が遠くにいってしまって、私は物語の人々と一緒に生きる。むしろ、彼らそのものになる。移入しやすい考え方、感じ方を持つ登場人物と、そうでない登場人物、というのはいる。だけど、本を読みながら自分の日々を振り返ったり、「自分なら」と置き換えたりすることはほとんどない。もちろん、読み終わった後でならあるけど。
読んでいながら、自分というものの輪郭を、日常を、価値観を、意識すること。それはすごく私にとって不思議な感覚だ。私は自己啓発本が苦手だが、それはその点が原因かもしれない。私は私であることを忘れたくて本を読んでいるのに、私であることをむしろ強く意識させられるから。
この物語は、別に生き方の正解や、生きやすくなるためのコツを示しているわけではない。ただ、当たり前にこの世に存在しているもの。自分がこの世に生きているということ。自分が生きているこの世というもの。
そういう、当たり前として、日々の前提に存在しているものに対して、具体的に思いを馳せる。そんな時間を生み出す作用のある作品だと思った。こういう風に具体的な対象物に落とし込み、物語として紡ぐという方法で、それを伝える術があるのだなということに感激したし、私には考えていることをこんな風に上手に伝えることは、どう頑張ったって出来ないだろう。
消えるとか、消えないとか
この世に当たり前に存在しているもの。多すぎやしないだろうか。少し前にはなかったもの。今はなくてはならないもの。
私たちの世界には、どんどん新しいものが増えていく。人はずっとずっと何かを生み出し続けている。でも実は、静かに消えていっているものもある。多くの人に知られることもないまま、消えててしまったものもあるだろう。人間の営みの外で、生まれたり消えたりしているものもあるだろう。なくなったことに気づかれないまま過ぎていくものも、きっとたくさんある。
今までだってそこにあったのに、見つかって名前がついたとたんに”存在している”ことになるものってある。新種の虫、宇宙の星、化学物質。
だからきっと、そこに存在している、存在していない、は、人間の認知の都合なんじゃないかと思う。
この世界から消えてほしくないもの
先日友人と会話をしていた際、メタバースの話になった。仮想空間へと消費活動が広がっていく話。経済活動の範囲が広がりすぎて、私には想像ができない。それって楽しいんだろうか。自分の価値を他人が決める世界が、さらに加速するような気がする。対象の相手が増えるイメージ。
私は多分、自分の目で見て、手で触れて、耳で聞こえるものしか信じられない。
とりわけ手で触れるということは重要で、紙の本がなくなったら困る。本当に。
ページをめくる瞬間、紙の擦れる音、その本に蓄積された匂い、一ページ分進んだ物語。それらが失われてしまったら、私はこの世の楽しみを全て失ってしまうかもしれない。それぐらい、私にとっては重要。
実感、みたいなもの
私は日記を携帯電話のメモに残している。けれど、自分が生み出した言葉が、自分が考えたことが、電子デバイスの1と0の世界に分解されて、電気的な動きによって保管されていると思うと、妙な気分になる。ともすれば脳の中も、電気的な働きで”考え”ているのだと思うと、こちらもよく分からなくて、つまり私は、本当に狭い範囲のものしか信じられないのだと思う。
電気回線に乗って運ばれてきた声は信じられない。会話が通じるとか、意味がわかるとか、そういうことではなくて。もっと深い次元で。内容に対することじゃなくて。その人が声帯を震わせて、それが空気の分子を振動させて、それが伝わって私の耳を震わせる。それがないと信じられない。
画面に映った顔を見ても信じられない。その表情は信じられない。目の前にいて、その人が反射と吸収した光の結果として私の網膜に届いたものでなければ。
身体感覚を拡張させるなんて、うまく想像することすらできない。電気刺激などではなく、直接触れてほしい。たとえこの先技術の力がどんなに精密にその感触を、その温度を、模していたとしても。その人の肌の匂いを、体温を、指紋を、私の肌で直接感じさせてほしい。
多分私は怖いのだ。生きているという感覚が曖昧になるようで。身体に障害を持つ人たちのハンデがなくなるとか、良いこともきっとたくさんあるのだろうけど。未知のものは、どうしても怖いと感じてしまう。臆病なので。お金の価値もどんどん難しくなっていく。
私はこの世の変化の波に乗れず、仮想空間にたどり着けず、今の世界に取り残されてしまうのだと思う。もう山奥か海の近くに住んで、自給自足で生きるくらいの覚悟を持った方がいいのかもしれない。
すごく悲観的だ。悲観的だけれど。
怖い怖いと言いながら、人間って慣れてゆく生き物だから。
私もそのうち変化に慣れてゆくのだろうか。
以上、梅雨の気圧と気温の変化にすらついていけず、絶賛不調真っ只中、あとめちゃくちゃどうでもいいけど猫アレルギーのTokuより、お送りしました。
読んでくださった方、ありがとうございます。
6月って気分沈みがちですよね (私だけ?) 、みなさまくれぐれもご自愛ください。
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