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【読書記録】猫を抱いて象と泳ぐ

今回は、小川洋子さんの、"猫を抱いて像と泳ぐ"です。

この本への記憶

大学生の時に、図書館で借りた。一人暮らしの部屋のベッドに寝転がりながら読んだ。その感触を、なぜか鮮明に覚えている。
小川洋子さんの本は、大好きな博士の愛した数式をはじめとして何冊か読んできた。どれも世界の見え方が独特で、美しくて、そこにすごく惹かれる (ちなみに博士の愛した数式は2004年の本屋大賞です、そのうち余裕あれば書こうと思います)。

この作品を読んだ時、その一貫した独特な、得体の知れない美しさ。それがどこか”グロテスク”さを含んでいるのだということに、思い至った。”グロテスク”という言葉はマイナスの意味の言葉ではなく、美しさと両立しうる言葉だと知った。その表現が、この美しさを表すために私の中で一番しっくりくる表現であるということに、気がついたのだ。

改めて読んでみて

この作品を読んでいる間じゅう、私は美しさと静けさに打ちのめされていた。どうしてこうも美しい空間を、時間を、文章として織りなすことができるんだろうか。
私はチェスのルールを一つも知らないのに、リトル・アリョーヒンが生み出す詩の美しさは私を魅了する。チェスの譜面は読めないのに、彼が指すチェスは美しいのだと分かる。小さすぎる身体、唇の脛毛、きっと実際に遭遇したらギョッとしてしまうだろう。でもチェスの世界にはそんなことは関係ないんだ。そんなことは関係なく、彼が描くチェスの美しさを目の当たりにしてみたい。今私はもしかすると、本を通じてそれを目の当たりにしてるのかもしれない。

大きくなるのを恐れ、誰もが逆らえない大きな流れから身を隠し、みんなが通り過ぎてしまう小さなチェスセットみたいに、見ようとする人しか見えないところでひっそりと美しいチェスを指す。
知ってる人しか知らない、知らない人は存在に気づきもしない、永遠にその美しさを知ることはできない。そんな存在。
そんな存在に出会う機会があったとして、私はそれに気づくことができるんだろうか。小川洋子さんの本を読んだ後は、永遠、なんて言葉を軽率に使ってしまう。

ミイラが、彼の生きた証を、彼のチェスが描いた軌跡を、納めてくれた。世界一小さいチェスセットの隣に、リトル・アリョーヒンが生きた、彼がとても美しいチェスを指した、ということを、残してくれた。そのことが私の胸を熱くする。そこにいた人たちだけが共有したその時間を、その時間が本当に存在したことを、この世に残してくれた。
そもそもが物語であるということを忘れて、私はミイラに感謝した。

物語らしい物語

この物語は、私のすぐ近くにある物語のような気もするし、どこか遠くの国のおとぎ話のようでもある。時間や、場所や、そういうものから切り離されて、ぽっかりそこに浮かんでいるかのような物語。社会の中で生きているはずなのに、社会の仕組みから切り離されているような光景。お金とか、権力とか、そういうものが遠くなっていく。
生きるために本当に必要なのは、そんなものではないのかもしれないと思わせてくれる。

実際には私たちは、お金がなければ生きてはいけない。ご飯を食べて、自分の寝床をもって、人間として、この社会で生きていくためには、お金も、権力も、ある程度は必要。どんな素敵な物語に浸っていようとも、 (私の場合) 月曜日になれば会社に行って働く日々が始まる (投稿している今日は土曜日)。私にとって仕事をしている日々は、それはそれで生きている実感であり、生活である。不可欠なものなのだと感じている。

ただ、だからこそ本を読むのかもしれない。”生活” というものがこちら側に存在していて、そこから自分を切り離すために本を読む。
同時に、”生活” がここにあると分かっているからこそ、純粋に物語を楽しむことが出来るのだとも思う。そうでなければ、本に没頭して自分というものを消すことに、ここまでのめり込むことは出来ない。自分の日々があるからこそ、存分に誰かの物語に沈んで、その中で何かを感じることが出来るし、そこから帰って来てから、その物語について考えたり、想像したり、誰かと語り合ったりできる。

最後にちょっと関係ないけど

私は、よく読む作家さんの描く物語に対して、色やその彩度、コントラスト、のようなイメージを持っている。感覚的には、写真編集アプリの各項目の調整バーを想像してもらって、この作家さんの生み出す物語はこの辺からこの辺までくらい、というのがそれぞれある感じ (伝わる?伝わってなさそう、伝われ…!)。
歌い手さんに、その人の声質や音域、歌うジャンルがあるように、このあたりの色彩の、こういう彩度の物語を読みたい、なら、この作家さん、みたいな感覚。

小川洋子さんの場合、繊細で、わりあいコントラストや彩度が低いかのように思われる物語のなかに、時折はっとするような鮮やかな色が宿っている、そういう感覚がある。そしてこの作品は、なぜか私の中で赤いイメージがある。黒と白のチェス盤が、リトル・アリョーヒンのすべてだったというのに。どこから出てきたのか分からない、赤い色。深い赤じゃなくて、朱色の方が近いかもしれない、赤。
この感覚って何なんでしょうか、私だけなのかな。

これまでにないくらいふわっとした投稿ですが、今回はこれにておしまいです。
暑い日が続いておりますが、どうぞ皆様おからだに気をつけてお過ごしください。


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