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日記:努力とゲーム依存

先週あたりから気が滅入ってきているので、こういうときは文章を書くことで癒されたいものです。
というわけで、「心に浮かんでは消える他愛のない事柄を、とりとめもなく書きつけて」みようと思います。

私はいま働き始めて1年目の新入社員で、今度の4月から2年目になります。
正直あまりうまく働けている気がしていません。業務がたくさんあって、うまく処理できません。あと会社に一人よく怒ってくる人がいて、嫌な気持ちになります。
「一年目は大変な時期だ」などと言い聞かせて、自分をよく慰めています。
年の近い先輩がいないので、若者代表として矢面に立っているのも苦境の一因かもしれません。

そういう環境要因は置いておいて、最近考えているのは、「自分がどれくらいモチベーションがあるのか自分でもよくわからない」という悩み事です。
ズバリ言ってしまうと、私は「(思考や発言においては)意識は高いけど、あまり努力や行動が伴っていない(怠慢が目立つ)」ようなところがあります。働き出してから、そんな感じで空回りし続けているところがあります。
けど、それはこれまでの人生でも同じだった気がするのです。これまでの人生でも、意識の高さと怠慢さがかみ合わず空回りすることもあれば、意識の高さと行動がうまくかみ合って望ましい結果を手にしたこともあったのです。
私はそんな思い出を振り返って最近過ごしています。

高校時代

高校は県内トップクラスの進学校でした。中高一貫の私立高校に外部の中学から編入した私は、成績は落ちこぼれというほどではないけど、それなりに下の方にいました。
数学と英語が点数が低く、全然ついていけませんでした。
自尊心を守るために、ニッチ科目だった「倫理」に目を付け、休み時間も倫理用語集を読みまくって、その科目だけ学年一位を取ったりしていました。(学年一位を取れた背景には、学内の偏差値上位層は「政経・倫理」というフィールドで戦っており、単体での「倫理」は彼らとは異なるカテゴリとなり特に人数が少ない、というカラクリがありました)。(ふつうに「倫理」の内容が好きだったからというのもあるんですけどね)。

私がよく覚えているのは、高校2年生が終わる冬頃の時期に行われる担任教師との「進路面談」です。「受験生」になる直前に、進路について生徒と教師の間ですり合わせを行うわけですね。
担任教師のM先生は壮年の男性英語教師で、温厚な人柄で生徒からの信頼もある素敵な先生でした。
私は非常に低い偏差値の楽そうな大学ばかりを挙げ、初めから及び腰でした。M先生は、進路面談らしく「もっと上を目指してみませんか」といったことを言いました。私は、言葉を濁していろいろ言った後、最終的には「いやでもがんばりたくないんですよね」といったことを言いました。そのときのM先生の反応が、はっきりとは覚えていないけど、よく記憶には残っています。とにかく、「マジか…これは何を言っても駄目だろうな」という空気を感じたことだけよく覚えているのです。他人から諦められる瞬間を経験した気がします。結局それから、M先生は私に対して勉強のことを強く推してくることはほとんどなかったような気がしています。

実際私はがんばりたくなかったし、毎日アニメとゲームのことばかり考えている生活から抜け出せるとは思えませんでした。高い目標を持っているのに「今日もゲームばかりやって勉強できなかった」「今日も…」「今日も…」という日々が続くのはおそらく精神衛生的によくありません。そんな未来を想像すると、初めから高い目標など持ちたくありませんでした。

しかし、私も好ましく思っているM先生に「こいつマジで勉強する気ないのか」と見限られたと思うと、少し心がざわつきました。だからよく印象に残っています。

結局、私はその後一年間、ゲームをほぼまったくやらず、受験勉強にしっかり取り組みました。
まず3年生が始まる3月の春休みには、「まずは指針からだろう」と思ったのか『受験の心構え』系の本を読んだり、「自分を変えたい」「生産性を上げたい」と思ったのか『短期間で成果を上げる人の習慣』的なノリの自己啓発系の本をたくさん読んだりしました。
そして、3年生の春から夏は得意科目を伸ばそうと「倫理」「国語」「地理」あたりを勉強し始めました。
次に、夏が始まるあたりから、成績のいい友人に相談して英語や数学の勉強方法を教えてもらい、教えてもらった通りのやり方で日々勉強しました。この頃は一番楽しかったかもしれません。「まったく勉強(宿題)していなかった科目」を急に勉強し始めると、勉強した分だけ点数が上がるんですよね。いずれは頭打ちが来るのでしょうけど、最初のうちは変化があっておもしろかった記憶があります。(いや、数学だけは最後まで伸びなかった気もしてきました…。ただ、点数は伸びなくても、「問題集が解けるようになってきた」みたいな嬉しい変化は経験した記憶があります)。
「夏を制する者は受験を制する」みたいな言葉をよく聞きましたが、それで言えば私は「夏を制した者」でした。つまり、夏休みにしっかり勉強してちゃんと実力をつけてきた受験生だったということです。うまく行っていて素晴らしいですね。

最終的には、私は当初よりもよっぽど高い偏差値の大学を志望するようになっていました。夏休みはオープンキャンパスに行ったりして、「このキャンパスに通ってみたいな」といったモチベーションを高めたりもしました。

受験の思い出をすべて振り返るわけにもいかないのですっ飛ばしますが、もう一つ印象に残っているのは、受験前日にM先生と話したときの記憶です。
「試験が近づく12月~1月はとにかく過去問や模擬試験を解きまくるべし」といった方法論に従い、私は共通一次試験の過去問や模擬試験を毎日解きまくっていました。
そして、一次試験の前日に、私は進路指導部でもあったM先生のところを訪ねました。記憶は曖昧ですが、そのときの会話をざっと再現するとこんな感じです。

私「先生、明日試験ですよ~」
M先生「そうですね、がんばってください」
私「昨日センター過去問解いたんですけど、(第一志望である)〇〇大学の合格最低点を上回ってました」
M先生「……合格、おめでとう」
私「ありがとうございます笑」

早くも受かっちゃいました。

気が抜けそうな話でしたが、結果としては私は第一志望の大学に合格することができました。
一次試験の点数が好調で、そのまま合格ラインを突破するという「センター試験逃げ切り型」と呼ばれたりもする合格のやり方でした。
一次試験が終わった後、張り詰めた緊張の糸が緩んでしまったのか、発売から半年以上我慢していた「ファイアーエムブレムif」という神ゲーを一日13時間プレイするということを14日間ほど続けてしまい、個別二次試験の点数は(入学後開示を見たのですが)正直低かったです。まさに「センター試験逃げ切り型」でした。

受験勉強を通して、①勉強の楽しさを感じられた、②それなりの期間ちゃんと努力するということを初めてやれた、というのはよかったことかもしれません。
ただ、深掘りはしませんが、私は高校三年生の時期はクラスに居場所がなくなって精神的には人生で一番苦しかった時期でした。
会話相手がいないという理由で毎日苦しく、だけど日々成績は上がっていきました。うまく行ってるのか行ってないのか、一概には言えない一年間でしたね。

大学時代

私は哲学を専攻し、さらに大学院進学という進路を選択しました。
大学4年生の頃、「研究テーマを絞り込み」「関連する文献を読み、要約し、自分なりに論じられる内容を練り上げていく」ということが必要でした。
私は、6月に指導教員から言われました。「関連する文献を読んで来てね」と。
私は、7月に「スプラトゥーン2」というめちゃくちゃおもしろいゲームに出会い、毎日それだけをしました。食事、睡眠、シャワー、トイレの回数は著しく低下しました。
どういう生活か一例をご説明しましょう。まずある日、午前7時から午前11時まで眠ります。目が覚めたら午前11時から午後5時までゲームをします。眠くなって、午後5時から午後6時まで眠ります。午後6時から午前7時までゲームします。大学の授業は7割ほど欠席します。これを3週間以上続けます。
次に、私は8月に「ゼルダの伝説ブレスオブザワイルド」という信じられないほどワクワクしていつまでも遊べてしまう世界中で評価の高いゲームに出会いました。食事、睡眠、シャワー、トイレの回数は著しく低いままで、これも3週間ほど続けます。ついに、私の身体は高熱を出してしまいました。私は高熱にうなされたので、その苦しみから逃れるために、これまで減らしてしまっていたもの、つまり食事、睡眠、シャワー、トイレの回数を増やしました。すると、身体は段々と元の通りに回復してくれました。取り返しのつく仕方で身体がSOSを出してくれたようで、結果としては本当に助かりました。
(ゲームの世界を進行させるのがおもしろすぎて、現実の自分の身体をお世話するのがまったく重要な事柄だと感じられなくなるんですよね。一日12時間以上ゲームするということを三日以上続けると、もはや「現実性」や「身体性」の居場所が逆転した感覚を抱くことになるんです。つまり、ゲームの世界に自分の身体の居場所を感じ始めて、それを操作しているこの指や身体はあまり意識に上らなくなってくるのです。「没入」とは脱身体的な感覚を含むものだったんですね)。

8月末に院試があり、内部進学も検討していた私は、自分の指導教員(男性)と、もう一人お世話になっている哲学教員(女性)の二人を面接官とする口頭試験の場に臨みました。
私は、その場で「この2か月の研究進捗がゼロである」ことを告げました。すると、指導教員から怒られました。彼は生産性の高い人物だったので、問題があるならそれを解決しようという姿勢でした。

指導教員「この数か月間、何やってたの」
私「非常に言いづらいのですが……ゲームをしていました」
指導教員「それを実家に送りなさい。本当に卒論完成しないよ?」
哲学教員「ゲーム依存なら、しかるべき機関に相談した方がいいかもしれないから、そういうことも考えてみたらどう」
私「はい、そうします…」

私は他人からこっぴどく怒られたので、それから1週間くらいはずっと落ち込んでいました。しかし、同時にこれはやはりチャンスだとも感じていました。「やっとこの生活から抜け出せるじゃん」「今を逃したらもう次はないかもしれないよ」そう感じていました。

ここで再び、ゲーム依存状態の心理を描写します。
まず重要なこととして、すっかり没入しちゃってるゲームプレイヤーの感覚としては、ゲームとは、現実とは独立に進行しているもう一つの世界です。そしてポイントとなるのが、一方の世界を進行させているあいだは他方の世界の進行が滞る、逆もまた然りだということです。つまり、一方で、現実世界で食器を洗ったりお風呂に入ったり研究書を読んだりしているあいだは、ゲームの世界の出来事が進行しないのです。そのことが居ても立っても居られません。自分が真に関心を抱いている世界はそっち(ゲーム)の世界だというのに。また他方で、ゲームの世界の出来事を進行させているあいだは、現実世界の出来事が進行しなくなります。つまり、私が他のイカをインクでビチャビチャにしていたり、弓矢で魔物の頭部を射ち貫いたりしているあいだ、自分は常に空腹の苦痛に晒され続けるし、髪の毛は妙にジメジメしてくるし、研究の進捗はゼロなのです。
そして、次に重要なのが、「現実の世界に向き合うのが怖くなる」という感覚が強い力を持つことです。ゲーム世界に取り組んでいる限りは、自分はどんどんゲームがうまくなっていくし、ゲーム世界の出来事はどんどん前へ前へと進行していきます。小さな達成感の積み重ねが大きな娯楽性を持ちます。しかし、もちろん、何度も何度も「あれをやらなくちゃだめだ」と思うのです。具体的には、「そろそろご飯食べなくちゃだめだ」「シャワー浴びなくちゃだめだ」「研究進めないとだめだ」そう思うのです。数時間に一度頭をよぎるこの小さな苦痛を差し止める方法は、おそらく二種類あります。
ひとつは、現実にそれらを一つ一つクリアしていくという方法。もう一つは、そんな疑念を振り払い、再びゲームの世界に意識を戻すという方法です。再びゲームの世界に没入すれば、またも数時間のあいだは「現実世界がどんどん悪化している」ということを意識する苦痛から逃れられるのです。コントローラーを手に持ち(なお感覚としてはほぼ身体と同一化している)、ゲーム世界が現在進行しているモニターを前にして、後者の誘惑に勝つことはほぼ不可能と言っていいほどです。(ごくまれに成功するときだけが救いです。そのときだけトイレに行けるし、食事ができます)。
こうして、単におもしろいだけでなく、現実逃避としての意味合いを強く持つこととなった「ゲーム」という存在は、私の全行動をそこに縛り付けました。意識ある限り、私はゲームをしているのです。つまり、ゲームから解放されるのはどういうときかというと、それは「意識を失ったとき」なのです。ついに脳が限界を迎えて「寝落ち」したときだけ、私はゲームから解放されることができます。あとは、尿意が限界に近づいたときと、三日に一度くらい来る空腹への「危機感」が高まったときくらいです。
それ以外のときは、つねにインクをばら撒いているか、ハイラルの大地を駆け巡っています。意識ある限り。

私は苦しんでいました。確かにゲームは楽しかったです。「楽しいからまたやりたい」とも心の中で素直に思っています。しかし同時に、「こんなんじゃだめだ」とも頭の中で素直に考えています。
これは「ゲーム依存(ゲーム障害)」なんじゃないか、そうずっと思っていました。
・自分の意志で(極度に)やめられない。
・生活に(極度に)支障をきたしている。
私の状態が医学的にゲーム障害だと見なされるかどうかはわかりませんが、もうこの二点が揃っている時点で、私にとって十分に「問題」であることは間違いありませんでした。

私は、①自分の身体が高熱を上げて、力業でゲームから数日間引き離してくれたこと、②指導教員が怒ってくれて私を「落ち込んでいる」という特殊な精神状態にしてくれたこと、という二つの条件が揃っているのを見て、「今しかない」と思いました。
私は決意し、ゲーム機(NintendoSwitch)を大学の部室に封印しました。それから、自分の部屋を掃除し、研究の計画を立てました。
それから、毎日何ページかずつ、研究書の要約を始めていきました。「ああ、受験期のような生活が戻ってきた」と思っていました。
今日の予定と明日の予定をすべて手帳に記し、毎日その通りに行動するのです。朝7時に起きて、ベーコンエッグを作って食べます。9時から12時まで英語の勉強をします。昼食後、13時から17時まで研究書の要約を進めました。
英語論文を読む能力を高めるために、高校英語を基礎から勉強し直しました。「文型」(SVなど)というのを大学四年生にして初めてちゃんと頭に入れることができて、見違えるように英語の文が読めるようになりました。あれは偉大ですね。遅ればせながら、基礎を勉強し直すことができて本当によかったです。

毎日の生活内容を自分で厳しくコントロールし、緊張感がある一方で、「自分は今日もちゃんとやれてるぞ」という確かな自信と高揚のある日々。9月以降、私は仏僧か受験生のような管理生活を送り、結局12月くらいまで一切ゲームはしませんでした。あれは素晴らしい日々でした。

卒論はいま読み返すとあまり褒めることはできませんが、それでも当時としてはよくやったのではないかと思います。
学部は卒業できましたし、その卒論を提出して他大学の大学院に合格することもできました。
卒論一色の生活では、単純に研究することの楽しさを存分に味わうことができました。自分の関心のあるテーマを、世界中の優秀な研究者たちが書いてきた文章を元に、広げたり深めたりしていく、こんな楽しいことが「遊び・娯楽」じゃなくて、「大学の研究・卒論」という体で取り組めるなんて、夢のようじゃないですか。そんな風に思いました。ゲームなんかは、「楽しいけどそればっかやってちゃいけないよね」というポジションですが、大学生にとっての研究はむしろ「それをやってください」というポジションですからね。後ろめたさがなく、誇らしさだけがありました。

さいごに

日記のつもりでしたが、思い出の回顧になっていました。
私は、楽しいことだけをして生きていたいらしく、これまで結構そうしてきた面があります。しかし、ときどき「努力」っぽいことをして、結果を出してきました。そのことで、誇らしいような、むずかゆいような気持ちでずっといます。
比喩的にまとめるならば、「ずっと遊んでいたいよ~」とわめくだけわめいた挙句、急に態度を切り替えてバーっとがんばって、「ちょっとだけ背伸びしたら届くくらいのちょうどいい高さの次のステージ」に居場所を移して、またそこで甘えた態度を取り始める…という仕方で、自分を甘やかしながらも人生をそれなりに前向きに転がしてきたのかもしれません。
「楽しいことだけして暮らしていたい」「だけど惨めな境遇に身をやつして自尊心が傷つくことは怖くてたまらない」
私はこの二つのエネルギーに振り回されながら日々生きているのかもしれません。

心が晴れはしなかったけど、時間の使い方として嫌な時間じゃなかったのでよかったです。

おわり

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