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彼に全てを求めないということ


彼と「寄り」が戻り3か月が経った。
別れているあいだも一緒に住んでいた私たちは、今はもうそれまで付き合っていたころのように、寧ろ今までよりも仲が良く、円満にやっている。


それは、私が、彼に対して不安になったり、彼を通して自分の価値を確かめようとすることや彼だけを求めることをやめたからであると思う。


私には、父親がいない。
正確には、いるのだけど、いないということにして、仕舞った。


彼との喧嘩、別れを経験して気付いたことは、私の愛情の求め方は恐らく普通ではないのだということだった。
「ママ、パパ、見て」「こっちにきて」「見ていて」という、幼少期であれば誰もが一度は手にしたことのある感情や欲求。
きっとひとりひとり、「レベル1:両親からの愛」を溜める瓶みたいな何かを持っていて、ハロウィンにお菓子を求めるこどもみたいにそのなかに愛情を入れてもらっては、自分を満たしていく。大抵のひとはその「レベル1」の瓶は幼少期のうちに満たし終えて、きゅっとふたを閉めて心のなかにしまっているんだろうと思う。そして、レベル2や3、そして今度は「与える」ということを知っていく。

恐らく私は、その瓶をまだ満たし終えていないのだ。
私の場合、母が父のぶんまで愛をくれていたのだけど、当時8歳くらいのわたしには母のレベル3くらいの瓶がすでに父によって割られてしまっているのがしっかりと見えてしまっていたため、自分が愛されていることに後ろめたさを感じていた。瓶は、割れたらそうそう元には戻せないのだ。一生懸命接着剤でくっつけたとしても、新しい中身はじわじわ漏れ出して、ちゃんと溜めておけない。

私は、ずっと正しい父になりたかった。
どうしてこの人は母を大切にしないのだろうとずっと思っていた。そして「娘」である私はどうやっても「妻」として満たされない母の空白を埋めることはできないことがなにより悲しく、無力だった。

わたしはたぶん、レベル1の瓶をほったらかしにして「上手にひとを愛すにはどうしたらいいのか」「人のこころを満たすにはどうしたらいいのか」ばかりを考えて生きてきたのだと思う。その向こう側にはほんとうは「愛されたい」「“お父さん”と遊んでみたい」という欲求があることにうすうす気づいて恐ろしくなりながら。(お父さん、という言葉に“”をつけないととても気持ち悪くて打てないのが、目に見える証拠だなと思う)

その欲求は幼子がするそれと同じで、そりゃ小さい子が父親に対してやったら可愛いのだけど、いまのわたしが恋人にしたところで戸惑われるのは間違いない。


たまに、ふと、彼と、自分の父親が重なる時がある。
元からあったけれど、喧嘩をしてひどい言葉をかけられてから、時折フラッシュバックのように重なってしまう。父の手の脂で汚れたガラケーの画面。ハートマークの記号。「あなたのお父さん、あなたのこと居ないことにしてるよ」という、電話越しの知らない女の人の声。口止め料の3000円。破られた、上手くかけたキョロちゃんの絵。消されたわたしの名前。スポーツジムの名前で登録されたうちの電話番号。投げつけられたティッシュの箱。父の漏らした排泄物を無言で片づける母の、横顔。

なにひとつ同じものはないはずなのに、彼の背中を見るとそれらが思い浮かぶ。拒絶されるのではないかと怖がるこどものわたしが出てくる。でも、そうなったら彼の名前を呼べばいいのだ。もしくは、自分で彼の前に立てばいい。そうすれば、彼は「ん?」と微笑んでくれる。記憶は一瞬でどこかへ霧散していく。彼は父ではない。彼は、父ではない。


「こっちを見て」「わたしを見ていて」と。
私は、今までそれを彼に求めようとしていた。
でも、どこかで自分は異常なのだろうだとわかっていたから求めることを我慢していた。

その「我慢」の自覚が何よりもつらく、いけなかったのだと思う。
自分で自分を追い込んで、彼に対して勝手に「どうしてわかってくれないのだろう」とフラストレーションをためてしまっていた。

もう、わたしは、そういうことを、しないようになった。

彼には彼の愛情表現がある。
それが、わたしの求めるものと違うのは当たり前なのだ。
わたしが幼少期に父親に笑いかけられた記憶がなかったとしても、それはこの世界に生きる誰にも関係ないことなのだ。わたしだけが、わたしをわかっている。わたしにしか、わたしの事情はわからない。

これを読んで画面の向こうのあなたが「当たり前だろう」と思うのなら、それはとても幸せなことだと思う。わたしは、今までそう思えなかったから。「理解しよう」とすることと、「理解する」ことは雲泥の差だ。
私はようやく理解できて、とても、生きるのが楽になった。


彼は、わたしを「安心の象徴」として扱うようになったのだと思う。
たぶん、「性」ではない。
キスはする。ハグもする。好きだよと言い合うし、抱き合って眠るし、お互いがお互いの喜びそうなことをふとやってみては満足そうにしたりする。

ただ、セックスはしない。
正確には、「求めあうようなセックス」をしないのだ。

そういう行為はするけれど、繋がった時点で満足してしまう。
快楽を求めるというよりは「あたたかさ」を感じて眠くなってしまう。
それも、一か月に一回あるかないかなので、恐らく私たちは世間一般で言うセックスレスなのだと思う。

彼は寝ているとき、険しい顔をしていることが多い。
そういうとき、横に行ってそっと頭を撫でると、ふと目を覚ましふにゃりと安心したように笑って、和らいだ顔で、すぐに呼吸を深くする。
すこし口をあけて、いびきなんかをかきだしたりもする。
そのときの彼は、ほんとうにちいさな男の子に見えるのだ。
わたしはその険しさが和らぐ瞬間を見るたび、彼の初めての誕生日の、ゆれるろうそくと彼の涙を思い出す。彼のまるいおでこを撫でながら、おなじはやさで、息をする。
そうすると、セックスレスという言葉はどこかにすっ飛んでいくのだ。

愛は、一種の呪いだと思う。

愛されなかったという呪い。
愛しているという呪い。



彼に全て、あれもこれも求めない。

「満たされない」と膨れ上がってしまう寂しさは
「そういう愛情表現」をしてくれる人を探すのだ。

「彼が幸せならそれでいいの」なんて私にはもう言えない。
それをしたらいつまでも壊してしまう。
彼の幸せは私の幸せでもあるけれど、私が欲しい幸せもちゃんと得なければだめなのだ。

無心で追いかけるなら仕事
共感なら女友達

求められたいなら、
わたしを、「性」として見て「女性」として扱ってくれる人。


私は彼が好きだ。
彼と離れる生活は考えられない。

でも

「愛されている」のと「求められる」のは別だと思う。
私は今愛されているけど、求められてはいない。
それなら、求めてくれる人に会えばいい。
そうすれば、彼の前でわたしはいつもご機嫌でいられる。


多分私は一生、男の人に愛されたがる。
正確には、「父」に愛されたがる。
でもそれはもうこの回の人生では不可能だから、他の男性に求めるのだと思う。

彼にすべてを求めないのは正解だと思った。
あの人に会うこと。
そういう仕事をすること。


それらは、本当は他の女の子を抱いた
彼に対しての当てつけなのかもしれない。

わたしは、彼を許せていない。
わたしは、彼を愛している。

愛情と矛盾が織り交ざって、わたしもよくわからない。
だけど、私は今、確実に今までのどの時点よりも生きている。
彼の頭を撫でながら、あの人と言葉を交わしながら。


織り交ざった誰かと誰かの匂いのなかで、ゆっくりと息をしている。



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