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日焼けた畳


何も無くなった「私の部屋」は、くどいくらいに、そこに確かに私が居たという痕を残していた。


ベッド、本棚、机。この部屋に初めて来た時には真新しく青々していた畳の、その色が、それらの家具のあった場所にだけ残っている。



私と彼は、12月の頭に別れた。


正確には、私が、家を出た。


「別れよう」と言う言葉は、わたしが言った。



好きだった。

好きで好きで好きで、こころの痛覚が麻痺するくらい、好きだった。愛していた。

でも、それは、愛は、私だけでは成り立たないのだ。


鍵を失くしたわたしの小さな失敗は、彼にとっては大きなことだったようで、また部屋のドアを閉めた。拒絶にはもう慣れていた。

もう、終わるな。と、どこかでわかっていた。

「ちゃんと話そう」という私に、彼は、「今君のことを見たくない。ほら、ネガティブな感情を抱くものって目を逸らしたくなるでしょ。そういうこと。あとさ、今日最寄り駅でカップルが待ち合わせしてるの見て、ああ今君に駅前で待たれていたら嫌だなと思ったよね」と、言った。

「それは、もう、好きじゃないってことだね」と私が言うと、彼は「好きじゃない.....そうだね。好きじゃないねえ」と言った。

涙は、出なかった。

彼の、喧嘩した時の突き放しの癖だとか、強がりだとか、そんなふうに我慢出来るちからは、もう私には残っていなかった。

「わかった。じゃあもう別れよう。私は年内に出ていくよ。来年に持ち越したくないから」

強がりでもなく、するりと口から出た言葉だった。私ももう、疲弊していたのだ。私は、完璧にはなれない。彼の求める私は、彼の邪魔をしない、彼が困った時に彼を助けてくれる都合のいい私だ。彼は「わかった」と言って部屋に入り、ドアを閉めた。

そうして呆気なく終わった私達。私は、すぐに家を探し始め、荷造りを始めた。絶対にクリスマスまでに引っ越しを終わらせると決めて、仕事の合間に内見に行き部屋を決めた。荷造りと仕事と部屋探しで、2週間ろくに眠らなかった。そのあいだ彼はやはりドアを閉めていて、私達は1度くらいしか顔をあわせなかった。

引越しの日の朝も、何も話さぬまま、私は新しい家へ身を移した。新居で荷物を運び入れ、彼が帰る前に掃除を済まそうと「同棲していた家」に戻る。

涙が出たのは、その道中だけだった。


ふたりの家の、最寄り駅。手を繋いで降りた階段。よく待ち合わせた駅前の目印。駐輪場。お肉の安いスーパー。一緒に桜を見た公園。彼の好きなアイスが売っているコンビニエンスストア。どう降りても走ってしまって最後にはふたりで笑いだす、急な坂道。彼のやさしい顔、手のひら、温度、笑顔、笑い声。私の名前を呼んで、好きだよ、と、言う声。

口をきかなくなって2週間。もう既に、彼の記憶が、薄れていた。そのことに、泣いた。

自分でも驚くくらい色々が込み上げてきて、人目も気にせずしゃくりあげながら泣いた。泣いては歩いて、歩いては道端に彼の温度を見つけて、また泣いた。

好きだった。好きだった。好きだった。

好き、と進行形になってしまいそうな気持ちを無理やり過去形にして唱えた。

エントランスを見て泣いて、ポストの名前を見て泣いて、ドアを見て泣いて、鍵を握って泣いて、ドアを開けて、何も無くなった自分の部屋を見て泣いた。

声を上げて、ひとしきり泣いて

そうしたら、すっと気持ちが落ち着いたのだ。


もう戻れない。物理的に何も無くなった部屋を見てそう思えるのがとても強かった。泣くだけ泣いて気持ちが悪いくらいスッキリした私は、最後の家賃と「身体に気をつけて」という一文だけを残し、最後の鍵を閉めポストへ落とした。


私のいた部屋に誰が住もうと、もう関係ない。


私は、私を幸せにするのだ。

彼といることが一番の幸せだと思ってしまう私を一度強く殴って、抱き締めて、よく頑張ったと言って、もっと愛してくれる人を愛するために、前に進む。


自分が幸せになるための別れは、時に強制的に訪れるものである。最初のノートを書いた時の、私を、思い出して。背を押す。



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