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勉強がすきなおばさんから、勉強がいやだなと感じてる君たちへ。

夏休みと勉強と

 こんにちは。今日は8月31日、君たちは今日まで夏休みなんだろうか。おばさんが育って住んでるところは日本の北の方なので、夏休みはだいたい20日くらいで終わるんだ。9月から新学期!みたいなのは漫画の中でしか見たことなかったので、子供の頃はなんか、えっそれほんと?とか思いつつちょっとうらやましかった。

 さて、君たちは勉強すき?おばさんは勉強がすきで、子供の頃からすきだったし今もすきだし、もういい年してお金もないのに仕事を置いといて勉強しちゃう感じの大人なんだけど、なんとなーく、子供たちはあんまり勉強するのすきじゃないんだろうな、って感じるときがある。でも、それもしかたないのかもな、とも思う。どうしてかっていうと、多分、大人たちが君たちに「勉強しろ、勉強しろ」って言う『勉強』があんまり楽しそうなものじゃないし、あと実は、そういうこと言う大人たちも、たいして勉強すきそうじゃないなって思うんだよね。

 おばさんには子供がいないけど(ついでに言うと夫もいないけど)、「おじいちゃん/おばあちゃんちの2階に住んでる何やってんだかよくわかんない親戚のオトナ」的な大人なので、お正月とかお盆とかには、甥っ子とか姪っ子とかイトコの子供とか、そういう子たちと一緒に遊んだりおしゃべりしたりはよくするんだよね。みんなちょう面白いよね。知ってることとか考えてることとか、教えてくれる遊びとか。おばちゃんはそういう集まりのとき、大人と話すよりも子供と話す方がすき。大人はだいたい、酒飲んで仕事のことと生活のことしかしゃべんないからね。あと、おじいさんたちは高い確率で昔の武勇伝とか語り出すから、おばさんは逃げるね。

 大人と子供が一緒にいるとき、おばさんには苦手な話題がある。なんで大人って、すぐに「夏休み/冬休みの宿題」の話を始めるんだろうね?「宿題がまだ終わらない」とか「ちゃんと宿題やらないと」とか、挙句の果てに「トーコおばさんに教えてもらえば?」とか言い出すから苦手だよ。大人は子供の頃、そんなに宿題をちゃんとやったのかな?大事だと思ってたのかな?そして大人になった今、「ああ、宿題楽しかった!」とか、思ってんのかな?

 おばさん実は勉強教えるのあんまり得意じゃないっていうか、「問題を解いてドリル的なものに答えを埋めていく営み」がすきじゃないし、自分がやらざるを得ない立場になったら仕方ねぇなあ!で覚悟を決めて埋めるけど、子供の隣に座って答えを教えるんだか教えないんだかビミョーな感じで情報を匂わせたり引っ込めたりしつつ何かを書き込むように仕向ける、みたいなのがほんとに苦手なんだよ。前に一度「読書感想文を教えてくれ」と親戚に頼まれて小学生の女の子と一緒にやったことあったけど、あれもほんとにお尻の落ち着かない経験だったよ。もー感想文なんて正解はないんだから、感じたことをどんどん書けばいいんだよね、バカみたいで面白かったとかさっぱりわかんなかったとかさ!

コウモリは哺乳類か?

 それで今年のお盆もね、小学5年生の女の子とその一家が遊びに来てたとき、宿題から勉強の話になったんだよ。で、その流れでうちのおじいさんが意気揚々と問題を出したわけ、「〇ちゃん、コウモリが何類か知ってるか?」と。酒と飯の席なわけよ、コウモリが何類とかどうでもよくない?結局〇ちゃんはあっさりと「……哺乳類?」と正解を出したわけなんだけど、おばさんは何だかいやんなっちゃった。こう、「よし、おじさんが君の知識を確かめてやるぞ、わかるかな?」みたいな鼻高々な感じがさ。

 なのでおばさんはそのあと話を奪っちゃって、おじいさんのくれたパンフレットを〇ちゃんと見ながら、そこに載ってるコウモリのサイズがちょうちっちゃくてテーブルの上にある箸置きくらいのサイズと重さしかないとか、大きい方のコウモリは小さい方の2倍くらいの大きさだけどそれでも箸置きサイズだとか、暑い地方にいるでかいコウモリはとんでもなくでかい、あり得ないよね!とか、そういう話で盛り上がったんだけど。

 ここにね、大人たちの考える『勉強』のヒントがかくされているとおばさんは思う。大人たちの多くは(特に年をとった人たち、かもしれない。でも、年をとった人たちの考えを変えるのが、実は一番むずかしい)、いまだに『勉強』とは『正しい答え』『正しい知識』を間違いのないようにたくさん覚えることで、『勉強』とは大人や先生が出した質問に子供が答えて、「よろしい」とか「もっと頑張りなさい」とか評価することだと思ってる。と、おばさんは思う。

 でも、勉強ってほんとうはそういうことじゃないんだ。勉強っていうのは、自由に「これはなに?」「これってどういうこと?」「これっておかしくない?」と考えを巡らせて、それに対する自分なりのナットクを見つけ出すものだし、実は子供の質問に大人が答えるものなんだ。でも多分、大人の多くはそういう勉強を自分でもしたことがないし、子供の質問に答えられるほど深く自分でも考えたことがないから、「Q.コウモリは何類だ?」「A.哺乳類」式の、雑学事典や早押しクイズみたいな『勉強』を子供にご披露しちゃうんだと思う。おばさんは長らく小学校や中学校に行ってないけど、学校にもそういうとこあるのかもね。テストって、だいたいそんな感じじゃん?

「コウモリ=哺乳類」じゃない世界

 実際のとこ、(もちろんおばさんも「コウモリは哺乳類」だって知ってるんだけど)コウモリって哺乳類だと思います?おばさんの哺乳類のイメージって「毛が生えててふわふわしてて、あったかい」って感じ。鳥も確かに毛が生えててふわふわしてるけど、鳥を、写真とかでもいいから、寄って見たことある?脚の固くてうろこっぽい感じとか、くちばしの付け根とか目のふちのぶつぶつした感じとか、寄ってじっと見るとちょっとキモい。ああいうとこ見るとやっぱ、トカゲとかイグアナとかに近いのかなーって感じる。そう考えると、コウモリって普段見ないし、触ったこともないし、あのハネの部分とか薄くてなんかひんやりしてそうじゃん、あんまり哺乳類って実感わかなくない?

 実は「コウモリ=哺乳類」じゃない世界もある。魚類だとかハチュウ類だとか哺乳類だとかいう分類を考えた人は、18世紀のスウェーデンの博物学者・生物学者であるリンネという人。ここから近代的で科学的な生物の分類法が発展した。でも、西洋じゃない世界とか昔ながらの文化の中では、こういう科学的な分類によらない分類も、いろいろあるんだ。

 センザンコウって知ってる?こういう動物なんだけど……。

 センザンコウ、見た目やばいよね!これ、一応哺乳類なんだけど、そう見える?見えなくない?アフリカとかアジアの暑い地域に住む動物なんだけど、そこいらの地域の人たちも、まさか自分たちと同じ「類」だとかそこらの獣と同じ「類」だとか思わなかったみたいで、伝統的な民族独自の分類ではちょっと特別なところに入ってる。こういういろんな動物の特徴が混じっているような動物は、いろんな世界にまたがる「境界」にある存在だと考えられたんだ。「境界」の動物っていうのは、特別で不思議な力がある存在だとされていたんだよ。これは、おばさんが昔習った記憶を思い出して書いてるので、ごめんね、ちょっとあいまいなとこあるけど。

 同じようにコウモリやカモノハシも、その分類については昔の人たち、いろいろもめたんだよね。単純に、「コウモリは哺乳類なんだぞ!」という話ではない。

アフリカの大人も子供の将来が心配

 おばさんがこういう、センザンコウみたいな話を知ったのは、文化人類学っていう学問。おばさんは大学で文学部に入り、文化人類学を勉強したの。

 だいたいの大人のひとって、文学部だとか文化人類学だとかいうと「そんなもの勉強して就職できるの?」とか「何の役に立つの?」とか言わない?「もっと役に立つ勉強したら?」って。おばさんの大学の先輩で今は大学の先生をやっている人がいるんだけど、この間聞いた話が面白かった。その先輩はアフリカの研究をしていて、大学院の頃に数年間住み込みで調査をしたんだけど、そのときあんまりどうでもいいようなことばかり質問するので(実は、そういうどうでもいいような細かくて大きな違いのないように思えるたくさんのことに、調べる意味があるんだよね)、現地の大人の人たちに「そんなことばっかりやってて就職は大丈夫なのか」って心配されたんだって。大人の心配は世界共通だな!と思って、面白かった。

 おばさんは文化人類学を勉強して、別に大企業にも勤めなかったし先輩みたいに大学の先生にもならなかったけど、それでもそれを勉強してよかったと思う。おばさんが文化人類学から学んだことは、

・世界にはいろいろな考え方があり、どれが正しいとか一番だとか、そういうことはない。どんな「えっ?」と感じるような文化でも、その内的なリクツをよくよく見ていくと、独自の意味の体系が精巧に張り巡らされている。
・その意味で、わたしたちの文化や社会と他のひとたちの文化や社会は、同じように大事で対等だ。価値観はひっくり返して考えることができる相対的なもので、立場を変えて考えると、いろいろなものが見えてくる。
・数字やデータ、計算はないがしろにできないけど、万能なわけじゃない。人びとの語る内容をじっくり追っていくと、数字では見えないものが見えてきたりする。数字で見ることも、語りで見ることも、それぞれ得意とすることは別で、両方大事。

というようなこと。こういうのは別に仕事やお金には直結しないけど、でも、仕事をするときもお金を稼ぐときも自分の生活や友達との付き合いを楽しむときも、その一番の土台になることなんだよ。自分がもっと知りたいこと、もっと身につけたいことは、その先に積み上げていけばいい。「役に立つことだけ勉強しろ」なんて言うひとたちは、なんていうかな、「君たちの土も耕さないし肥料も与えないが、できあがった実だけはこっちによこせ」って言っているようなものだから、真に受けなくていい。「役に立つ」というワードには警戒しよう。そういうときは、「『誰の』役に立つってこと?」と、いったん立ち止まって考えてみよう。

勉強したこと、身につけたことは全部つながる

 おばさんはまあ、人生迷走したし病気もしたしお仕事も何回か変えているけど、2番目に働いた会社でそこの社長に言われた言葉が、今でも心に残っている。そのときおばさんは病気がちょっと落ち着いたばっかりのときで、まー仕事にも自信がないし実際やれることもそんなにたくさんなかったのだけど、社長はこう言ってくれた。

『キクチさん、今はできないことばっかりだと感じるかもしれないけど、ある仕事をしてここの部分ができるようになる、違う時にはまた別の仕事をしてここの部分ができるようになる。それを続けていくと、はじめは部分と部分がはなれていてまったく別のことのように思えるけど、いつの間にか間が埋まってくっついていて、気がつくとすごく大きな範囲のことができるようになっている。そういうふうに仕事をしていけばいいんだよ』

 今になってみると、ほんとにそうだと思うことがいっぱいだ。おばさんは結局、その会社にいたころはそんなに大きな範囲のことができるようにはならなくて、そこを辞めたあとにあれもできる、これもできるが開花して、ああ、お世話になるばかりでお返しできなかったなあ、と申し訳なく思うけど、その社長がそういう言葉を伝えてくれたこと、そういう態度でおばさんに接してくれたことを、つくづくありがたく思う。

 役に立たないと思っていた学びも、こんなことして何になるんだろうと考えていたことも、失敗も挫折も、最後にはぜんぶつながって、オセロのコマがぱたぱたとひっくり返って盤が一面自分の色になるように、全部自分の役に立つ日がくる。

 大人が「勉強しろ」と言っても、「そんなことやって、将来なんの役に立つ?」と言っても、「そんなことじゃなくて違うことをしろ」と言っても、君たちはすきなことを、どんどんやればいいと思う。人生の先に、それらはきっと役に立つ。そしてどんな学びでも、先に進んで先に進んで先に進んでいけば、みんな同じところに到達するんだ。それはまるで、丸い球の表面上のそれぞれの入り口から好きなように中に入っても、いずれは内部でみんな同じ中心に到達するようなものだと思う。自分のすきなところ、興味を感じたところから、とにかく中にぐいぐい入り込んでいけばいい。「正しい入り口」を探して球の表面を迷い歩いたり、「そっちじゃなくてこっち!」で、せっかく刺さり進み始めたところから引っ張り出されることもない。

 大人だって、自分の進んできた道でしか、その球には刺さっていないんだよ。球への刺さり方はその道が一番だ!最短だ!と思っているかもしれないけど、そんなことはないんだ。

 おばさんのたどってきたルートと君のたどろうとするルートは違うかもしれないけど、きっといつか球の内部で出会うね。そのときは、両手を挙げてハイタッチしよう。それでは、またね。

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素で今日は8月31日だと思い込んでいたら、なんと30日だったことが発覚したよ!びっくりだね!夏休み、あと1日あるじゃん!

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