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マインドフル・セルフ・コンパッション、思いがけない言葉が浮かび上がり、そして涙。

 ここ2年ほどアプリを使って瞑想を続けてきたのだが、心理学の勉強を始めてから、マインドフルネスが認知行動療法のひとつであることを知り、臨床の場で使われているプログラムがあることを知るに至って、興味は一歩先に進んだ。少し前から、公開されている音声ガイドを利用して、マインドフル・セルフ・コンパッションに取り組み始めている。

 使わせていただいているのは、こちらの音声ガイド。そのうち、(お金の余裕ができたら!)講座も受講してみたい。

■Mindful Heart Center

■マインドフルネス心理臨床センター

 マインドフル・セルフ・コンパッションは、簡単に言えば、つらい、苦しい状況にあるとき、自分自身を愛と思いやりで包み、自分自身を解放していくための練習、と受け止めている。呼吸瞑想やボディスキャンは、以前から行っている瞑想と類似の感覚だったが、自分に言葉をかける慈悲の瞑想、慈愛の瞑想などは、かなり別種の感覚だった。

 ここから先は、瞑想の内容にも言及するので、まだやったことがなくてご自身の瞑想が影響されてしまいそうな予感のする方は、どうぞ実践された後に読んで欲しい。

 「慈悲の瞑想」(ガイド:マインドフルネス心理臨床センター)を初めてやってみたとき、戸惑った。あたたかい、やさしい気持ちを向ける相手をイメージするよう促されるのだが、誰ひとり候補者が見つからない。何て言うのだろう、わたしは執筆を通じてあるいは今の対人援助職を通じて、あらゆる女の子たちにある種の同志感、仲間感を確かに感じているのだけど、思い浮かべるだけで微笑んでしまうような、リラックスしたあたたかい気持ちになる誰か、と言われると、何だか明らかに違う、そんな相手はまったく思い浮かばないのだった。ペットでもいいと言うが、いま傍にびったりくっついているおばあちゃんネコでは違くて、仕方ないので、亡くなったおじいちゃんネコが足元にうずくまっているのをイメージした。

 瞑想は進み、ガイドと一緒に「幸運を祈る言葉」を心の中で唱える。「あなたが安全で守られていますように」「あなたが本当の幸せを見つけますように」「あなたが平和でありますように」「あなたが安心して生きられますように」。言葉を繰り返し、自分の安全を思い巡らしているうちに、突然ある感覚が姿を現した。わたしは強烈に(寄ってくんな)と感じているのだった。

 寄ってくんな、と思う。わたしは強烈に、誰に対しても、近寄ってくんな、わたしのエリアに、突っ込んでくんな、と思っている。わたしの安全には、誰も突っ込んでこない守られた空間が必要である。そのうち涙が流れてきた。

 寄ってくんな、突っ込んでくんな、というのは、わたしに過剰な関心を向けてくんな、という意味であるらしかった。どうも、わたしに向かう過剰な関心は、ろくなことになったためしがないのであった。過剰な関心は、気持ち悪い。過剰な関心は、何かの欲でぎらぎらしている。過剰な関心は、わたしからいいもの、便利なもの、役に立つものを引っ張り出そうと、好奇の目で注視してくる。珍しい、金になる、異国の動物を見るように。

 わたしは、自分を過度なスキンシップの好きな密着タイプだと思っていたので、寄ってくんなの感情が現れたことには、かなり驚いた。その一方でわたしにはかねてから、身近な人ほど酷いことしてきやがるという確信的な感覚があるので、納得する感じもあった。鍼治療の場を、静かで安心できる場だと感じていたけど、あれは同じ空間に先生がただ在る、わたしもただ治療を必要とするいっこの心と体としてだけ在る、それだけの存在で、過剰な関心の向かわない、そういう静かな、植物的な感じが安心だったのだな、と思った。わたしには時々訪れる場所として、淡い緑に囲まれた、落ち着く、とある神社の空間がある。

 寄ってくんなは、初めての慈悲の瞑想での感覚で、2回目はそんなに強くもなく、もっと穏やかだった。

 「私たちへの慈愛の瞑想」(ガイド:Mindful Heart Center)をやってみたときも、初めは戸惑った。「やさしさや思いやりの言葉」「あなたが聞く必要のある言葉」とは何だろうか。全然思いつかない。これもまた見つからないのか。そう思いながら考えを巡らしていると、不意にぽこっと、「いい子だ」という言葉が浮かび上がってきた。

 「いい子だ」。断定的な、はっきりとした、言い切る言葉。「いい子」というのは、「ものわかりのいい」とか「従順な」とか「扱いやすい」とか、そういう意味ではなくて、「善き」というか、まるごと、人間として「それでいい」「曲がっていない」「お前は正しい」、そんな意味なのだった。

 ガイドに促されながら「いい子だ」「いい子だ」と自分の細胞ひとつひとつに繰り返していると、やっぱり涙が流れてきて、それから喉と胸が凄く痛くなった。昔から、喉は、塊がぐうっと飲み下す途中で押し刺さるような、何でもないときに急に痛くなるようなことがあって、それと同じ感じの痛みだった。痛いので胸に手を当てた。

 「いい子だ」「いい子だ」と繰り返していたら、いつの間にか、体の周りを取り囲むたくさんの小さなぷちぷちが弾けるような、小さな、高い声の、いくつもの、「いい子だ」「いい子だ」というぷちぷちしたささやきが聞こえてきた。わたしを、たくさんの小さなぷちぷちが、いっぱい取り巻いて、支えていた。

 わたしは、上方にある大きな何者かが太く与えてくる「いい子だ」の一声じゃなくて、小さな、いくつもの、ぷちぷちと弾ける、「いい子だ」「いい子だ」「いい子だ」「いい子だ」という泡のようなささやき、体の周りにたくさんあるぷちぷちからの「いい子だ」、それが必要なんだな、と思った。「わたしたちはわかってる」、そういう感じのささやきだった。そして、そういう「いい子だ」だったら、わたしはもう持っているな、そう思った。

 大事にしてもらえる経験が少なくて、そして大人になってしまったとき、わたしたちは飢えていて、それを他者、例えば好きな人とか、親友とか、パートナーとか、そういう人たちから回収しようとしてしまう。でも大概、人が人に与えられる以上の、尋常じゃない量のものを得ようとしてしまって、お互いが枯渇してしまう。パートナーによって回復する人もいるけれど、そうはならないことも多い。

 大人になったわたしたちは、多分、自分で自分を愛し、満たしてあげなければならないんだと思う。それは結構容易でないというか、難しいんだけど、そうなりたいと思うし、そうなる未来も、先には見える気がする。そして、同じようなぽっかりに嵌っているきみもあなたも、一緒にそんな未来に行けたらな、と思った。

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