将来的に、モノ消費型の結婚は、終わる。コト消費型の結婚が、くる。【男と結婚_01】

 結婚が語られる時その文脈はいまだに、「男は女からどれだけのケア労働を得られるか」「女は提供するケア労働にどれだけの対価を得られるか」の駆け引き取り引き、その拮抗として語られることが多いように思う。その象徴が、結婚で重視するものとしてよく挙げられる「年収」と「料理の腕」なのだろう。「男が外で稼いで金銭収入を得、女が家でケア労働を担う」分業体制の結婚だ。

 しかし、そんな結婚モデルは日本においては戦後高度成長期に出来上がった新しいモデルだし、近年出生率を伸ばして注目されている欧米諸国に目を向ければ、男性の家事育児時間が長いことも有名だが稼得労働時間も男女で分け合っている。また、わたしが仕事で結婚相談に当たる男性の中に「稼得労働も家事労働も嫁に頑張って欲しい」願望が散見することに疑問を持っていたのだが、最近では「ここいらの地域では、勤め人と専業主婦のカップルって、そもそも一般的でなかったのでは。農家だの漁家だの林業家だのその複合でも、家のかあさんが一番稼いでいたのでは」という可能性に思い至った。

 ここで何を言いたいかというと、「結婚の形は変わる」ということだ。「男が外で稼いで金銭収入を得、女が家でケア労働を担う」という分業結婚が、(日本国内においてさえ)地域的にも歴史的にも鉄板の常識という訳ではなく、未来永劫続くわけでもない、ということだ。

 最近の世界と日本の社会変化を見ていると、わたしは、将来「収入とケアの交換」機能は、結婚から離れていくだろうと思っている。まず、一番大きな要因は「女が稼ぐようになるから」だ。この流れは、絶対後戻りしない。社会経済産業の構造がもう変化している。「時間空間を無制限に企業に捧げる男性労働者の集約労働」が金になる時代が終わる。加えて少子化により労働力が減る。望むと望まざるとにかかわらず、「女が稼ぐ」時代になる(勿論女子には、稼ぎ続けることをお勧めする。他人に生殺予奪権を譲渡するような選択は、あらゆる意味でリスキーである。「専業主婦は最もリスクの高い選択」というのは、結婚支援に関わる識者の共通見解である)。そうすると、男性がケア労働に参入せざるを得なくなる。労働力の偏りからも、労働時間の偏りからも、その流れは避けられない。

 このように社会と結婚が変化してくると、結婚の当事者間でコンフリクトが起こる。その表象が、現在起こっている「ワンオペ育児」だったり「フラリーマン」だったりする。女性の稼得労働が広まるのに、男性のケア労働が広まらない状態だ。この段階で結婚離れが起こるのは、なんの不思議もないと思う。女性は(働いた上に家事育児介護が全部被さってくるなら、結婚しない方がまし)と判断しておかしくないし、男性も(俺の方が多く生活費負担してるのに、それ以上のものを求められるんなら、独身でいた方がいい)と判断してもおかしくない。別に、いい。合理的な判断をするとそうなる。現代社会、自分一人養うくらいなら何とか稼げるし、ケアサービスだって、自力で充足するか外注で購入するか、できる。若い男性から聞こえるという「結婚はコスパが悪い」というのも、この辺の判断だろう。まあ、夫が専業主婦にフェアな対価を支払うには年収600万円以上必要だ、という試算もあるから(白河桃子、是枝俊吾「『逃げ恥』にみる結婚の経済学」毎日新聞出版2017/※まだ発売前)、それ以下の年収の人にとっては相当コスパがいいと思うが、「600万稼いで主婦雇うくらいなら、いらん」という選択もできるから、そこは自由だ。

【補足】(2018.5.11.記)
発売後「『逃げ恥』にみる結婚の経済学」を読んだところ、「夫の家事育児分担割合が0.0%の場合、フェアな夫の税込年収は1,400万円以上」でした。税込年収が600万円だと、夫のフェアな家事育児分担割合は「24.5%」になります。

 そうすると未来の結婚はどうなるか。わたしは、「それでも結婚する」という人だけ、残っていくと思うのだ。結婚をコスパで考えない人。結婚の経済的側面ではない部分に価値を置く人、つまり、結婚がもたらすパートナーとの愛情や安らぎ、くつろぎ、生活や家計の協働体験といった「共にあることで得られる精神的な充足」、そこを求める人の間にだけ、結婚が残ると思う。そこにあるのは、サービスと対価の交換ではない。むしろ、当事者がお互いに価値を提供し合い、同時に価値を作り出す過程を楽しむ、そういった関係性である。消費行動の世界で起こっている「モノ消費」から「コト消費」への転換、さらに進むとプロダクト提供側との価値の共有や相互作用への希求、そういった価値観と行動の変化が、結婚でも起こると思う。「モノ消費型の結婚」から「コト消費型の結婚」への変容だ。

 もう、その変化は始まっているのではないか。妻が夫に「あなたも家事育児に加わってよ」と要求する時、夫がそれを「わたしが提供するサービスに対してあなたの支払いが足りない」と読み解くと、「毎日遅くまで働いてるだろ!」とか「俺だって頑張ってるんだ!」とかキレがちであるが、そこじゃないんじゃないか。妻の本当に言いたいところは、「あなたをパートナーとして感じたい、家庭マネジメントを共同体験したい」というところではないのだろうか。「わたしをケアサービスというモノ消費の消費財として扱わないでくれ、一緒にコト消費する主体になってくれ」ということなのではないだろうか。だって、ご家庭の醍醐味は、そこだもん。

 仮にその価値観の転換に無自覚で、結婚をモノ消費と捉えたまま、コスパ重視で独身を選択したとしよう。そのまま時を過ごし、50の声を聞く頃となってきた。このままいくと、あと10年15年もすればリタイアか。老後が見えてくる。と、そこではたと。「あれ、実はイロイロ持ってない!?」と気付くのが、その年頃の男性なのではないか。

 収入が不完全な男性は、退職や親の死を間近にして、生活費の枯渇の不安に気付く。家事が自分でできない男性は「おふくろが死んだ後は、誰が飯を作ってくれるのだろう」とか「このままコンビニで飯を買い続けて、年金は足りるのか」とかいった現実に直面する。そしてこれが大トリ。収入も自分で十分だし、家事も自分でできる。妻なんていらないじゃん。そう考えてきたタイプの男性がここで愕然とするのが、「俺、モノに不自由してないけど、コト消費に不足してるんじゃ……」という点ではないかと思う。金持ちでブイブイ言わせて女に不自由のなかった男の人が、突然「誰も本当は俺を愛してくれていない……!」とか言い出すような感じ。不便がないと思っていたけど、愛情を向けてくれたりパートナーシップを共有する相手がいなかった。そこに気付く。

 一番危惧したいのが最後の問題で、「独身男性の精神的充足の場の欠如」が、彼らの幸せな人生をコンプリートする上で、一番ダメージを与える要素なのではないだろうか。ここで言いたい「精神的充足」とは、「充実している」というよりはむしろ「抜けている」という意味である。やすらぎ、くつろぎ、癒し、要するに、頑張らなくても力を抜いて楽にしていられる場、があるかないかということ。男性のコミュニティには、意外とこの要素が欠けていると思う。職場をはじめとする男性のコミュニティは、「誰が一番イケてるか」「誰が一番偉いか」を競いがちだから。弱みを見せることを揶揄するから。わっしょいわっしょいしているうちはそれも楽しいのだろうけれども、年を取ってくるときついと思う。今は、年を重ねているだけでは別にアドバンテージにならないから。

 女性のコミュニティは、参加するのにそれなりのコツはいるけれども、実は頑張らなくていい場なのだ。典型例は女子トーク。あれは何かと批判されがちだが、何も意味あることを話していないようでいて、絶え間ない自己開示と追及し合わない緩やかな承認し合いの連続体であり、トーク自体がコミュニケーションとコミュニティの強化とメンバーの癒しになる、という特徴を持つ。ここでは、ジャッジしたり批判したり解決策を指示したりする行為が、最も嫌われる。偉くなっては駄目なのだ。地域コミュニティだったりボランティアグループだったりインフォーマルなコミュニティはだいたいこの文法に則ったコミュニケーションスタイルを持っているから、会社の上下関係とかを持ち込んでしまう定年後男性などは、嫌われる。

 わたしが独身女子をあまり危惧しないのは、女子の抱える問題はほぼ稼得が少ないということに帰結し、家事などのケアには困らない、ということもあるが、女子は大体この手のコミュニティのどれかに属しているからだ。学生時代の仲良しグループ、かもしれないし、前の職場の同僚の気が合う人たち、かもしれないし、趣味の仲間、かもしれないし、姉妹とか仲の良い従姉妹かもしれない。意味のないおしゃべりができるし、カフェでだらだらとかもできる。そこが孤独を掬い、疲れた心や頭を緩める。わたしはこの手の、存在の意味や価値を求められない緩やかなつながり、の中にいる意味は、実はものすごく大きいのではないかと思う。そのつながりがつらい、という人もいるだろうし、確かにこういったコミュニケーションスタイルには独特のスキルやコツが必要であるが、言ってみればそれは、グループセラピー等で必ずお約束、とされるスタイルではないだろうか。言いっ放し、受け止めっ放し、評価なし、そこが大事。女子コミュニティや女子トークが苦手な人は、その何が苦手なのか要素分解してみること、どうしても居心地が悪いなら属するコミュニティを変えてみること、をお勧めする。

 であるので、男性が生涯独身を選択する場合は、女子トークスキルと家事スキルを身に着けておかないと、高齢になってから「ケア資源」と「精神的充足」の欠如に見舞われる可能性が高い、というのがわたしの結論である。「男性は親密な女性がいないと自分のケアをおろそかにしがちではないか?」という問題もここに絡んでくるが、その考察は次回にまわしたい。女子力高めのコミュニティに容易に溶け込めるような男性であれば、婚姻関係を結ばなくても外に癒しの場を確保できると思う。男子力高めのコミュニティはお勧めしない。死ぬまでイキってなければならなくなって、疲れる。とはいえ、家事スキルが高くて女子との親和性・融和性の高い男性は結婚しやすい、というパラドクスも、ある。

「最近の女は理想が高くなった」「あいつら、だから結婚できねえんだ」「昔はもっと簡単に結婚できた」とか、男同士でくだを巻いているのも楽しいだろうが、それは要するに、「最近の若者はワークライフバランスとかいいやがる」「残業もしないで仕事ができるようになるか」「昔はもっと仕事が熱かった」とか飲み屋でくだを巻く中間管理職と大差ないのである。OSが進化しただけである。感度の高い経営者は、もう次の時代に行ってる。感度の高い男女も、次世代の結婚に行く。勿論、過渡期のバックラッシュやコンフリクトはあると思うけれど。結婚生活における懸念として「結婚生活にかかるお金」をトップに挙げる日本に対し、稼得労働と家事労働における男女参画が平等に近いフランス、スウェーデン、イギリスでは「二人の相性」「二人の間で起こる問題の解決」がトップツーだという調査結果は、何か未来に対する光明のような気がしないか(平成27年度内閣府調査「少子化社会に関する国際意識調査報告書」)。

 そしてこういう話を書く時、わたしは必ず女性側も振り返るようにしているのだが、実は「今の男は甲斐性がない」とか「わたしを養えるほどの収入もない」とか「三食昼寝付きで楽させてほしい」とか言ってる女性に、出会ったこともないのである。あれって、男の中だけの都市伝説じゃないの?女性はもう新しいOSの方に移行していて、「結婚したいのに古いOSの男ばっかり!」と嘆いているような印象がある。男性はOSを更新すればいいだけなのに、「収入が低い」「長男で親と同居」「イケメンじゃない」といった、自分では変わりようがない(と自分では思っている)要素に持って行きがちのような気がする。自分が変わるよりも、「変われない要素に女がこだわってる」ということにしておいた方が、つらくないんだろうな、と思っている。

 男性と女性の対立を煽る意図は、毛頭ない。むしろ、対立関係を強化する「モノ消費型」結婚の古いOSをやめて、協調協同路線の「コト消費型」新しいOSに男も女も行こうよ、とお誘いしたいのだ。

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