【自由競争・〇〇は幻想】闘争領域の拡大/ウエルベック
フランス人の作家ミシェル・ウエルベックの処女作『闘争領域の拡大』を読んだ。面白かったので紹介したい。本作はひとことで言うと「非モテがメンタルをこじらせる話」である。
ITエンジニアである主人公と同僚のティスランが会社から出張を命じられ、二人でフランスの各地を回る。ティスランは容姿に恵まれないことが災いしてか女性経験がなく、女に飢えている。出張中にも手当たり次第にナンパするが、けんもほろろに断られ続ける。主人公はそれを横目で見て、「性的行動はひとつの社会システムなんだなあ、、、」と鬱になるという話。かなりひねくれているが、現実の一側面ではあるだろう。
本作では「自由に伴う代償」が描かれている。個人が自由に選択できる領域が広がるとは、個人の責任が問われる範囲が広がることとイコールである。大家族や終身雇用が保証された会社のようなコミュニティに縛られることはなくなってきている。それに伴いキャリアや伴侶を自己責任の名の下に自ら勝ち取るべく、人々は流動的に動くようになった。流動性の元でお互いがお互いを比較可能なシステムが構築され、勝者と敗者の明暗が別れることとなる。本作で描かれる恋愛弱者や、貧困に苦しむ人たちが現れることになる。
とはいえ、弊害はあれども自由が私たちの生活に豊かさをもたらすことは間違いなく、自由化の流れが止まることはおそらくないだろう。この流れにうまく適応して切り抜けなくてはならない。そのために本作から学べることはないだろうか?結論として、「最適な選択」に囚われないことがキーになると考えた。
主人公たちは、性愛から疎外されていることを嘆いているが、全く異性に接点がないわけではない。例えば主人公は顧客である農務省の担当者のカトリーヌから誘惑されたり、学生時代にブリジットという女性と付き合ったりしている。しかし、いずれの場合も関係の進展を自ら放棄している。ティスランについては、容姿の面でビハインドがあるものの、主人公が入院した時に見舞いに来たり、会話で楽しませようとしたりといったサービス精神があるので、身近に恋人候補となるひとがいたのではないかと思う。本来あったはずのチャンスを、自ら手放していたのではないだろうか。
なぜ勿体ないことをするのだろうか。それは、「最適な選択」という幻想に囚われていることが原因ではないかと推測する。学校や職場で関係ができたというだけでは根拠としては不十分であり、無限にある選択肢から自分にふさわしいスペックを持った異性を選択するべきという幻想である。この観念を前にして、主人公は選択をしないこと、ティスランは手当たり次第に選択をすることを選んだ。
もちろん、自由の代償として自己責任を求められるようになったのだから、理にかなった選択をしようとするのは自然なことである。しかし問題は主体性がないと論理的思考を扱いきれないということである。
極端な例だが、例えば異性を年齢や年収などの客観的数値を元にリスト化したとして、最適なパートナーを選べるだろうか?私はできないと思う。第一に、自分の好みや、それまでの相手との関係値など、数値化できない指標があること。第二に、客観的指標をどう評価するかは主観によるということ。結局、最後は自分の意思でえいやと決めるしかない。
主人公は周囲の事象に客観的らしき評価を加えるが、自分がどうしたいか表明することはほぼない。周囲の状況に反応を返すのみである。そのことは物語の終盤で主人公自身も少し自覚している。
そんな主人公だが、珍しく本音が垣間見える部分がある。休暇中にルーアンを訪れた際に、現地の結婚式に出くわした場面である。
新郎新婦を揶揄しているのは、羨望の裏返しなのだろう。本心では幸せを謳歌している彼らのことが妬ましいのだ。意図せずして自分の本心を突きつけられたシーンである。今まで接点のあった女性を妥協として切り捨てていたが、それでもやはりパートナーがいること自体が羨ましいということを直視せざるを得なくなった瞬間である。
自由は、比較可能な選択肢をもたらす。最適な判断をしたくなるのは自然である。しかし現実には変えることができないものや不確実性といった制約が存在する。理想に囚われて選択を放棄するのは勿体無いことである。手元の選択肢からえいやと決めることは競争に敗北した結果でも妥協でもない。自分が幸せになるために主体的に決断することである。「最適な選択」は存在しない。最適化ではなく、最低限でもいいから自分が満足できる選択をしよう。
ぜひ実際に手にとって読んでみてください。
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