モノつくりをする日本人として
家族と休みの日を合わせて、ドライブへ。とある神社に行くことになった。
確かな歴史ある由緒正しい神社で、本堂は『権現造りの傑作』と言われているほど。素人目にもその荘厳で精密なつくりの凄さがビリビリと伝わった。
現在の神主さんは70代目らしく、初代の頃には”いつ建てられたのかも定かではない”ほど、原初の日本に遡る。
資料館に展示されているボロボロの鎧や手紙を見ると、ファンタジーの様に思える日本の歴史は、確実にそこにあったのだと気付かされる。
全身がゾクゾクとする瞬間だ。
歴史に詳しいわけではないが、魂があるところには胸が震える。
特に、建築物や造形物、音楽や芸術面で残されている資料等の文化財を見た時がそうだ。
数々の芸術的なモノ達は、機械でつくられたのではないかと疑いたくなるほど精巧だ。職人の魂が浮かび上がっている。
ふと思う。職人らの原動力はどこにあったのだろう。
暮らしも現代ほど豊かではない中、彼らはモノつくりに生涯を捧げた。アートに文字通り”命をかける”ことができた。
苦しむ民を救うため仏具を堀り、荒廃した世を救うため寺を建て、国や主を守るため武器を生み、太平の世を統べる大義を成すため城を築いた。
こうして分析してみると、どれにも共通しているのは『なにかのため』という『心』があると思える。
『なにかのため』を心に持ち、信じていたからこそ精巧なモノをつくることができたのだろう。現代ほど素早く大量に部品が生産できるわけでもない。それでも納得の行くまで何度もやり直したに違いない。
つまるところ、古今東西、モノつくりにおいて最も大切なのは『なにかのために』を『信じる心』なのだ。
現代のアートからも作者の『信じる心』を強く感じるが、私が特に惹かれるのは、日本史上においても重要な文化となるモノだ。
それらは、『なにかのため』がモノの全てを決めている様な気がしてならないからだ。
現代社会は科学が重視され、効率や生産性、如何に得をするか、損を少なくするかが、最優先事項となっている。数字が絶対の根拠であり、物事を決定す強力な指標である。
そんな今だからこそ、国の文化財を目にし、観察し、思惟に浸るのは、何より有意義だと感じた。
思想、愛、慈悲、願い、祈り
それら目に見えない『なにか』は、科学的に実証されていない、存在が確認できない。
だからこの世には存在しない。存在を証明できない。
だが、先人達は違った。
目に見えない『なにか』は、存在が確認できない、この世には存在しない。
ならば、形に残し、この世に存在させる。
その目に見えない『なにかのため』を想うというのは、現代人には想像し難いものかもしれない。当時は祈りや願い、時として呪いすら、現代の科学と同様の確かな力として認識されていた。
無事を祈るため、幸福を招くため、災害を寄せ付けないため。
『なにかのため』に『信じる心』をもち、”当然”のように命をかけ、モノつくりをしたのだろう。現代人が科学を扱う様に。
この所業は本当に偉大なことで、感動することであり、
何より身近なことだ。
『なにかのために』『信じる心』を持つ。これ自体は誰にでもできるからだ。
私は趣味にアートをやっている。ダンス、身体表現団体での活動、作曲、ウクレレ演奏、ラジオアプリでの放送、noteブログ。
そのモチベーションは、「人の笑顔のため」を想うことだ。
だが、それを「信じる心」の強さ、思想の大きさは、偉大な先人達に比べたら赤子同然だ。
モノつくりをアートとすら思わず命をかける”当然の域”にまで達すれば、モノつくりをする日本人としてやっとスタートラインに立てるはずだ。
これは生きていく上での大きなヒントになり得る。アートのみならず、全ての分野に通ずるものだろう。
ドライブ帰りに立ち寄った高級うな重屋。5000円以上するうな重を食べながらも神社の感動が頭から離れない。
不器用な脳みそだ。
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