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小説『歩いてみたら』

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コピー機のリース会社に勤める水沢博一は、会社から突然の休暇を言い渡された。「働き方改革」が理由らしい。趣味もないので暇になった。すると妻から愛犬•ケイティの散歩を頼まれた。妻も働… もっと読む
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『歩いてみたら』 第5章

5  やると決めたら闘志に火が付いた。  高校時代を思い出し、当時の練習メニューを再現してひらすら励む。  ボールとシューズ、そしてウエアはランチ会の日のうちに新宿のスポーツショップで買った。また四万円の出費だったが迷いはなかった。休暇は残り数日なのだ。昨冬のボーナスを使い切ってもいいくらいだった。ただしその額は雀の涙ほどだが。  散歩から帰宅し、家の近所の公園に行く。リングの錆びたバスケットコートがある公園だ。リングの下に描かれた半円は消えかかっている。うっそうとした樹木

『歩いてみたら』 第4章

4  寝ても覚めても散歩のことばかり考えるようになった。  来週からは会社勤めの生活に復帰する。仕事が始まれば毎日のように広場に顔を出せない。ケイティの散歩係は継続するつもりだが、出勤前に徒歩で四十分もかかる公園に行くことは難しい。  となれば、メンバーと会えるのは休日だけ。  毎朝淹れるコーヒーの出来を山科夫妻に伝え、改善のアドバイスをもらえるのはせいぜい週二回だ。金森さんがライを撮る様子を見て腹を抱えて笑う機会も減るし、曽我さんと話して少年のように心をおどらせることも少

『歩いてみたら』 第3章

3  広場に集う犬の飼い主グループを構成しているのは、主に四組である。 一、  山科(やましな)夫妻。飼い犬はセント・バーナードが二匹。名前は五郎丸とマイケル。彼らは毎朝、軽油で走るランドクルーザーに乗って公園にやってくる。住まいは運転免許試験場がある都下だ。二人そろって体が大きい。ともに同じメーカーのナイロンパーカを着ている。遠目からだと見分けがつきにくい。住居を兼ねたカフェを営んでおり、夫がキッチンを、妻がホールを担当している。 二、  金森(かなもり)さん。飼い犬

『歩いてみたら』 第2章

2  休暇初日に思わぬ収穫があった。良質な散歩スポットを発見したのだ。  家の近所のお決まりコースを歩いていた博一は、少し遠くまで足を延ばしてみようと思いついた。  どうせ無限と言えるほどの時間がある。家に帰っても暇なだけだ。  舌を出して息を切らしているケイティに「まだ歩けるか?」と訊ねると、元気のいい鳴き声が返ってきた。  よしきた。それじゃ、行ってみるか。  行先は学生時代によく訪れた都立公園に決めた。水沢夫婦が通っていた大学に隣接している広大な公園だ。園内に

『歩いてみたら』 第1章

 1  働き方改革なんて他人事だと思っていた。その影響が我が身に及ぶことになるなど、毛ほども予想していなかった。  水沢博一(みずさわひろかず)が勤める会社はコピー機のリース業を主としている。大学を卒業し、入社してから六年間は営業部に籍を置いた。その後メンテナンス部に移り、客先に出向いて筐体の設置や点検、修理などに五年間励んできた。  とくに希望して就いた仕事ではない。  大学のキャリアセンターに求人があったのでエントリーシートを提出した。それが通ったから面接を受け、採用が