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『歩いてみたら』 第3章

 広場に集う犬の飼い主グループを構成しているのは、主に四組である。

一、
 山科(やましな)夫妻。飼い犬はセント・バーナードが二匹。名前は五郎丸とマイケル。彼らは毎朝、軽油で走るランドクルーザーに乗って公園にやってくる。住まいは運転免許試験場がある都下だ。二人そろって体が大きい。ともに同じメーカーのナイロンパーカを着ている。遠目からだと見分けがつきにくい。住居を兼ねたカフェを営んでおり、夫がキッチンを、妻がホールを担当している。

二、
 金森(かなもり)さん。飼い犬はラブラドール・レトリバー。名前はライ。職業はカメラマンだ。ライの語源はカメラのライカに由来している。公園の中央広場から見える宮殿みたいなマンションにひとりで住んでいる。広告業界では名の知れたカメラマンらしい。彼が撮ったという写真を博一は駅のポスターで見たことがあった。散歩にもカメラを持参してくる。隙をみせるとシャッターを切られる。最初こそ戸惑ったが、二日目には慣れた。金森さんの写真は生命保険のCMに出てくるような心温まる色味が特徴だ。

三、
 曽我(そが)さん。飼い犬はミニチュア・ピンシャー。名前はシャンティ。公園がある駅の二つとなりの駅前の雑居ビル内で、少人数制のヨガ教室を開催している。朝、公園内の芝生エリアでひとりヨガを行ってから広場に来るという。毎日タンクトップ姿なのはそのためだ。ちなみに、いつも穿いているのはスパッツではなくレギンスと呼ぶらしい。山科・妻が「そのレギンス可愛い」と褒めていたので学んだ。公園がある区内で生まれ育ち、実家で両親とともに生活している。

四、
 博一とケイティ。

 そのほか日替わりでとりどりの人間と犬が広場にやって来る。しかし毎日顔を合わせて長時間お喋りするのはこの四組だ。あとの人は会釈や挨拶程度のやりとりで、まだ互いの情報交換をするに至っていない。

 博一が由梨ぬきで広場に来るようになってから四日が経った。
 五月中旬の気温は、公園まで歩くと額に汗が浮かぶ。
「おはようございます。暑いですね」
「あ、水沢っち。おはよう」
 ケイティが金森さんの飼い犬・ライの背後にまわって脚の匂いを嗅ぐ。
「それ、なにしてるんですか? また違うカメラ?」
「うん。撮ってるのは動画だけどね。こいつのこと撮りためて、ユーチューブにチャンネル開設しよう思って」金森さんがレモンほどのサイズの小型カメラで、恥ずかしそうに後頭部を掻く。
「ええ、すごい。ライちゃん可愛いから人気でそう」
「だといいんだけど。でもたぶん、ただアップするだけじゃファンもつかないから、なんか切り口決めてやろうと思ってるんだけど……。フリスビーでも覚えさせようかなあ」
「はは。この広場なら思いきり投げれますね」
 今度はライがケイティの背後にまわり、脚の匂いを嗅いでいる。まるで平和なドッグ・ファイトである。
「あれー水沢さんだ。もうすっかり毎朝会いますね」
「ああ、おはようございます」
 曽我さんがシャンティを胸に抱えてやって来た。そばに寄られるとシャンプーのいい匂いがする。朝シャンしたのだろうか。曽我さんは愛犬を地面に降ろした。
「あれはなにしてるんですか?」
 ケヤキの木の下では移動した金森さんがライをベンチに乗せ、戸惑う愛犬をローアングルで捉えようと地面に腹ばいになっていた。
「ユーチューブ始めるみたいですよ。ライちゃんの」
「あはは。なにそれ」
 曽我さんが金森さんに近づいていった。「おはようございますっ」と言って地面に伏せている長髪男の背をタップする。金森さんが水揚げされた魚のように跳ねた。
 曽我さん、やっぱり由梨に似ているなあ――。
 誰にでも分け隔てなく接する態度や強い好奇心、よく笑うところ。
 バスケットサークルの新歓で初めて由梨を見かけたときの胸のふくらみを思い出す。
「水沢さん」
 大きな声で呼ばれて振り向くと山科夫妻だった。巨大なセント・バーナード二匹を引き連れてこちらへ向かってくる。ともに着用しているナイロンパーカがシャカシャカと音を立てている。夫が五郎丸と、妻がマイケルと。いつもと同じペアだ。二匹は着けている首輪の色が違うため博一でも見分けがつく。
「おはようございます。今日は道、混んでました?」
「ううん、全然」
「ちょっと環八で詰まったけど、いつもどおり」
 そう言いながら山科・妻が紙のカップを手渡してきた。
「これ、昨日話したやつ。来週お店で出す予定のブレンドを淹れたの」
「え、いいんですか」
「もちろん。冷めちゃってるけど、もしよかったら」
「わあ、嬉しいな。ありがとうございます」
 プラスチックのフタに開けられた小さな穴からぬるいコーヒーを口にした。
 美味しい。酸味が強くて、ほどほどに濃い。好みの味だった。
「僕このコーヒー好きです」
「おお、よかったじゃん」
 山科・夫が妻を肘で小突く。
「ほんとお? そう言ってもらえると淹れた甲斐があるな。水沢さん分かるのねえ」
「いやいや、そんな。いつもはコンビニのやつですし」
「でもね、最近のコンビニコーヒーは捨てたもんじゃないよ。下手するとうちみたいなカフェなんて食われちゃう」
 と山科・夫。
「うちはコーヒーの味だけでやってる店じゃないからいいんですう」
 と山科・妻。
「今度山科さんのお店、行ってみたいです。違うコーヒーも飲んでみたい」
「定番で提供してるコーヒーの豆でよかったら、ここに持って来ましょうか?」山科・夫が穏やかに言う。
「え? いいんですか?」
「うん。販売用の袋じゃなれば割引しますよ」
「ぜひ。でも豆の状態で買っても、家で淹れられるかな」
 自宅のキッチンを思い浮かべる。
「マシンは持ってる?」
「うちにはない、と思います」
「じゃあこれをきっかけ買っちゃえば? これなんかいいのよお」
 山科・妻が夫にリードを預けてポケットからスマートフォンを取り出した。アマゾンのページをひらき、おすすめのコーヒーマシンを見せてくれる。
 画面に表示されていたのは《豆から挽けるコーヒーメーカー イタリア製》。価格は三万円。山科・妻いわく入門編として最適のマシンらしい。
 豆と水をマシンに投入するだけで簡単にコーヒーができるし、紙のフィルターも必要ない。さらに、毎日のようにコンビニでコーヒーを買うことを考えれば、「安い買い物」なのだとか。
 三万円か……。
 腕を組んで山科・妻のスマートフォンを睨み、しばし悩む。液晶画面が暗くなるまで数十秒考えて、買うことに決めた。
 いまの生活はほとんど金が減らない。食事は幕の内弁当か家の中にあるもので適当に済ませている。毎日会社に行って自販機で飲み物を買ったり千円のランチを食べることを考えれば、三万円などすでに浮いているようなものだ。そう信じることにした。
 善は急げではないが、その場で自分のスマートフォンをポケットから取り出し、検索キーワードを教えてもらってアマゾンで注文を済ませた。到着は翌々日。山科・妻が翌日には広場にコーヒー豆を持ってきてくれるという。本来は百グラムで七百円のところを五百円にしてくれた。知人ならではの優遇が嬉しかった。楽しみがひとつできた。
「あ、山科っちファミリー。おはよーう」
 撮影を終えたらしい金森さんと曽我さんが歩み寄ってくる。
 山科夫妻が手を振り、「ファミリーって呼び方は変だよ」と笑顔で返事をした。
 まだ知り合ってから数日しか経過していないが、博一はこのグループが好きだ。
 曽我さんと話すと青春時代の甘い匂いが蘇るし、カメラを愛するあまり突飛な行動をとる金森さんは大いに笑わせてくれる。おっとりとした態度で様々なことを教えてくれる山科夫妻は頼もしい。
 皆、個人としての生き方が確立されているような気がする。
 俗に言う会社員ではないからだろうか。余計なルールに縛られる必要がないため、のびのびと呼吸している印象を受ける。
いくら自由な時間があるとはいえ、自分は企業という組織に属した人間だ。己で舵を握り大海を突き進む彼らと違い、水槽の中を周回し続けるだけ。
 広場で彼らに接するようになってから、博一はそんな風に考えるようになった。
 俺もいっそのこと、このまま退職してフリーランスにでもなってみようか。いやいや。自分にいったい何のスキルがあるのだ。いま会社を辞めたところで、ただ手に職のないアラサーの無職男が生まれるだけだ。じきにアラフォーだ。俺もなにかひとつでも、熱中してやってくればよかったのかなあ。
 黄味が抜けてきた太陽の光を浴びながら、金森さんが撮影した動画についてだべるメンバーを眺めた。こうして家と仕事以外の場で毎日同じ人間と顔を合わせるなど、学生生活を終えてから初めてのことだ。年齢も職業も違ういびつな仲間たちと、末永く仲良くやっていきたいと思った。
「ねえ、もう帰らないと。ランチの仕込みまだでしょ」山科・妻が夫のナイロンパーカの裾を引っ張る。
「そうだな。じゃあ行くか。ではみなさん、また明日」
 巨大な二人と二匹が広場から去った。
「あ、午前中にレタッチしなきゃ……。僕も行きます」金森さんが小型カメラをポケットにしまう。「ケイティ、シャンティ、じゃあね」
 広場には曽我さんと博一が残された。
 二人きりになったとたん、名状しがたい緊張感を覚えた。なにか気の利いたことを言わないと。せっかく曽我さんと二人で話せるのだから、個人的なことを聞きたい。
 しかし、意思に反して口が開かず、言葉を発せなかった。
 曽我さんは静かになった博一をまるで気にすることもなく、シャンティとケイティの鼻頭をつついて遊んでいる。
 博一は顔に血が集まるのが分かった。
 これじゃまるで、恋心を抱いているみたいだ。妻に対する罪悪感が静かに湧き上がる。
 そんなことを考え始めると、ますます何も言えなくなってしまうのだった。自分が喋らないことを気にしない曽我さん。そのことを気にする自分。それを気にしない曽我さん……。
底なし沼に足をとられたようだった。
 曽我さんが背後の時計台を振り返る。
「わ、もうこんな時間。シャンティ行こ。じゃあ水沢さんまたねー」
 曽我さんがシャンティを抱き上げ、愛犬の前脚を博一に振ってみせる。由梨もよくやる動作だ。博一は胸の前で小さく手を振った。
ひとり残された広場で東向きのベンチに座った。ケイティの毛むくじゃらな背中が震えている。冷めきったコーヒーが舌に触れると酸味が増していた。
 帰り道で昼食用の幕の内弁当を買い、自宅マンションに到着する。
 ソファにもたれてテレビをつける。朝から昼のワイドショーへと切り替わるところだった。お笑い芸人の司会者が「また明日」と言って視聴者に手を振っている。
 この人も狂犬だなんて呼ばれているけど、テレビの世界でひとり戦っているのだろうか。
 細身の三角形を保った彼のネクタイが格好いいと思った。
 昼食の前に、ここ数日の習慣となった雑巾がけを行うことにした。
 水沢家には掃除ロボットがいる。丸い形の、勝手に床掃除をしてくれるマシンだ。
 このマンションに引っ越してきてケイティを飼い始めた際、由梨が「犬の毛ってすごいからお掃除ロボ欲しくない?」と、当時の最新型のマシンを買ってきた。ロボを製造しているメーカーが由梨の雑誌の広告主らしく、定価の四割引きで手に入れられたとのことだった。
 掃除ロボットは仰々しいテレビコマーシャルのとおり優秀だった。
 夫婦が働きに出ている間に床のゴミを集めてくれるし、ひとりで住処に帰って充電する。ケイティの毛が床じゅうに散らばっているという状況にはならなかった。
 しかし休暇が始まり家の中でロボと過ごす時間が長くなった博一は、あることを発見した。すなわち、このロボは角に溜まったゴミを集塵するのが苦手であると。
 いちど、ロボが掃除を開始してから充電ステーションに戻るまでの一時間ほど、片時も目を離さずに監視し続けた。リビングのテレビ台横からスタートし、廊下を通り、博一の寝室、由梨の寝室、ウォークインクローゼット、洗面所、キッチン、リビング横の和室、とロボは淡々と床を舐めていったが、どの場所でも角の部分に当たると一瞬動きを止め、迷ったあげくボディの向きを変えて次の場所へと移動してしまうのだ。
 そして目を凝らすと、各場所の角にはホコリやケイティの毛がうっすらと残っているのである。これはいけない、と思った。
 お澄まし顔しているくせに、こいつ、とんだ食わせ者だ。
 博一はすぐさま最寄り駅そばの百円均一に走り、雑巾の三枚入りパックを三つ買った。
 家に戻るなり新品の雑巾を濡らして固く絞り、ロボットがゴミを残した角部分の掃除に取りかかった。
 人間の手でやれば、角のゴミはすぐにとれた。
 なんだ、だったら俺が全部やればいいじゃん。時間ならいくらでもあるし。
 それを機に掃除ロボットには休暇を与えた。自動でスタートするよう設定していたタイマーを解除する。そのまま置いておくと刀を奪われた武士みたいで可哀想なため、押し入れの奥に収めた。
 ケイティは遊び相手が消えて不満そうな表情をしたが、やむを得ない。掃除は家にいる者がするべきだ。だとしたら、その役目は俺にある――。
 ベランダに干していた雑巾をキッチンのシンクに運ぶ。水分を吸わせて一気にねじ上げる。
 由梨の部屋をのぞいて家じゅうの床を拭いてまわった。夫婦といえど、妻のプライベートな空間までは足を踏み入れがたい。
 大量の汗が顔を流れた。Tシャツの袖で汗をぬぐうたびに充実の鐘が鳴る。
 俺にもやれることはあるんだ。心の中で唱えながら、フローリングの板の隙間まで丹念にこすっていく。雑巾を三枚真っ黒にした。
 由梨は気づいてくれるだろうか。博一、こんなに綺麗にしてくれたんだ。ありがとう。妻の感謝の言葉を期待して床掃除を頑張った。

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 その夜、スマートフォンを専用ケーブルでテレビに繋いでユーチューブを観ていた。
 流しているのは金森さんの動画だ。
 ハイテンションの金森さんがライの周囲を延々と走り、うろたえる愛犬の様子を捉えた映像である。「へいへい、こっちこっち」とライの注意を引く五十路男の声が聞こえる。映像に手ブレはない。これがプロかと思った。はて、どんな切り口なんだろうか。コンセプトが理解できなかったが、最後まで観てみることにした。
 動画の合間に流れる広告をスキップしようとスマートフォンに手を伸ばしたとき、玄関ドアが開く音がした。ソファの上で寝そべっていたケイティがフローリングに飛び降りる。
「あれ、起きてたの」
「うん。おかえり。今日は早かったね」
「早いのかなあ」由梨が疲れた声を出す。「ま、シンデレラ的にはセーフ?」
「ご飯食べた? カレーならつくってあるけど」
「ううん、大丈夫。済ませてきた。ってか、なんかさ」
 リビング横の和室に仕事用のボストンバッグを置きながら、妻がリビングを見まわす。
「家の中めっちゃ綺麗になってない? 玄関と廊下もだったけど」
「うん。ちょっと掃除した」
「あ、お掃除ロボがいない!」
「俺が掃除するから実家に帰ってもらっちゃった」ふざけて言う。
「えー、どうして」
 由梨が眉間に皺を寄せ、レモン色のシャツを脱ぐ手を止めた。
「どうしてって……。俺最近、床掃除始めたんだよ。雑巾たくさん買ってさ。九枚もね。ベランダに干してあるの気づかなかった? ロボがあんまり掃除してないこと知って、自分で床拭き始めたのよ。すげえ綺麗になんのね。で、だったらこんなロボ必要ないかって」
「……だからってしまうことなくない?」
 由梨が語気を強める。めったにないことに博一は狼狽した。だが引くわけにはいかなかった。家を綺麗にして責められる道理などない。
「でもさ、なまじロボがやってくれると思うより、自分でできるならそうしたほうがよくない?」
「そりゃ自分でできるならね。博一はいいよ、いま時間があるんだしさ。でも、なるべくお互いが楽できるようにって、せっかく買ったロボのに。わざわざ片付けることないじゃん」
 由梨の声がどんどん大きくなっていく。よく見ると髪の毛に艶がなく、口の周りには吹き出物があった。目の下には濃いクマも。来月号はよほど大変なのだろうか。気の毒に思ったが、床掃除を非難されたことがカンに障った。
「そんな言い方ないだろ。ロボの代わりに俺が掃除することのなにがいけないんだよ」
「いけないって言ってるんじゃないの」妻が大きな足音を立ててキッチンに向かう。冷蔵庫の扉を開けて、なにも取り出さずにすぐ閉めた。
「そういうことされると、私がなにもしてないって言われてるみたいじゃん。博一ばっかり時間あるからって自分勝手だよ」
 喧嘩など付き合い始めてからしたことがなかった。勝ち目がないからだ。由梨は理屈で詰めてくる。
 しかし今夜の妻はどうも感情的だ。激務で神経がささくれだっているのか? それに博一自身もなにやら感情がヒートアップしている。
「それは由梨がそう思うだけだろ。俺が掃除したいんだからほっとけばいいじゃん。べつにあなたに迷惑がかかるわけじゃないですし」
「あ、そういう言い方すごい嫌だ」
 由梨がキッチンから出てくる。博一が座るソファの背後に立った。
「あなたとか言うのやめてくんない?」
「なにが? 言ってないけどそんなこと」
 ソファの上であぐらをかき、由梨のほうに体の正面を向けた。
「言った。私そういう物言いする人、大っ嫌い」
「そりゃ、おたくが先に仕掛けてきたからでしょうよ」妻の足元を見て言う。
「それわざとやってんでしょ。最悪」
 由梨がリビング横の和室に大股で歩いていく。束の間、本棚の前に立っていた。自分の雑誌を手に持ってリビングに戻ってくる。嫌な予感がした。
「ばかっ」
 B5サイズの雑誌が宙を舞う。
 とっさに顔をガードする。
 重たい衝撃が右腕を襲った。
 いたっ。角のところが当たったらしい。
 両腕の間から足元に落ちた雑誌に目をやる。
 表紙にはテレビドラマでよく見る若手女優が写っていた。右上には「12」の文字。
「年末号は広告ページが増えるから分厚いんだよ。辞書みたいでしょ。あはは」と以前、由梨から聞いた言葉が頭をよぎる。
 これはそうとう、怒っているな。
 腕を降ろす。なにか言ってやろうかと思った。だが口をひらくのをやめた。闘牛のような息遣いが聞こえたからだ。ウエストポーチの付録付き号まで投げつけられたら、たまったものではない。
 ソファから立ち上がり無言で自室に入る。風呂がまだだったが、どうでもよかった。ひとまずベッドの上で横になって頭を冷やそうと思った。
 ケイティがドアの向こうでか細い鳴き声をあげている。無視した。やつ当たりだ。
 あっけなくケイティの気配は消えた。由梨の元に行ったに違いない。
 俺、間違っているのかな?
 妻との口論を再考してみる。
 由梨が怒った理由は、納得できないわけではない。たしかに自分の喋り方は相手を煽るようなものだった気がする。褒められると思って頑張った掃除を否定され、反射的に攻撃してしまった。驚いて手を噛む犬と一緒だ。
 それに、愛情を注いでつくった自分の雑誌を投げた由梨のことを考えると胸が痛んだ。出来上がるたびに「今月はね……」と嬉しそうに持ち帰ってくる努力の結晶だ。頭に血が上っていたとはいえ、大切な我が子をオーバースローで放って後悔していることだろう。
 しかし謝る気にはなれなかった。なにも分厚いのを選ぶことはないだろ。右腕をさすると少量だが血が出ていた。
 うーん。痛い。
 いまさらリビングに救急箱を取りに行くのも気が引けた。由梨がまだいるかもしれない。
 まあ、時間が経てば元どおりになるだろう。当座は夢の中に逃げることにした。

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 週が明けて、月曜日。
 ホーローの青いヤカンがキッチンで高い音を立てている。
 ハンドドリップ式コーヒーを淹れるときは電気ポットよりもガスで沸かしたお湯のほうが美味しくなる――。
 山科・妻のアドバイスを順守し、毎朝ヤカンを火にかける習慣ができた。前日にアマゾンから届いた北欧ブランドの青いヤカンは、山科夫妻のカフェで使用しているのと同製品である。威勢よく買ったイタリア製の「お手軽コーヒーマシン」に関しては三日ともたずに戸棚の奥に姿を消した。入れ替わりでドイツ製の手挽きコーヒーミルが我が家にやってきた。
 コンロの前に行きガスを止め、しばし待つ。ボコボコと泡立ちの音がしなくなったらハンドドリップに最適な九十五度の熱湯の出来上がりだ。
 丁寧にコーヒーを抽出していく。ヤカンの柄にはホワイトオーク材が使用されているので、直接手で持つことが可能だ。頭の冴える匂いがキッチンを満たす。
 黒い液体をコーヒーサーバーから保温力の高いタンブラーに移し、フタを締める。準備完了だ。
 リビングを右往左往しているケイティの首輪にリードを繋ぐ。玄関から外に出る。ドアが閉まる直前に、掃除ロボットが作動を開始するメロディが聞こえた。博一は舌打ちしてドアに鍵をかけた。やや早足でエレベーターに乗り込み、マンションのエントランスを抜ける。空は五月晴れだ。その泳ぎたくなるような水色とは裏腹に、心は曇天だった。
 由梨とはまだ仲直りしていない。
 それどころか喧嘩の日以来喋っていない。顔すら合わせていない。
 ロボットはリビングのテレビ台横に再配備された。
 さらに、一日の設定稼働回数が二から四へと増えた。妻の怒りのメーターと連動しているようだった。
 公園に至るまでの裏道を歩いていく。途中、ケイティが用を足したので肩にかけたトートバッグからペットボトルを取り出し、電柱の根元に水をまいた。
 肩から下げているバッグは山科夫妻のカフェで販売しているオリジナルだ。オフホワイトのコットン生地に濃いブルーで「NO SIDE cafe」とプリントしてある。夫妻の出会いは大学のラグビー部で、夫が選手、妻はマネージャーだったという。
 いつもの広場に着く。曽我さんが水飲み場でシャンティに水を飲ませている。
「曽我さん、おはよう」
「あ、水沢さん。おはようございます」
 曽我さんが振り向き、蛇口の栓を閉めた。この日の装いは黒のタンクトップに黒のレギンス。スタイルの良さが際立って、まるで軽装の女スパイだ。
「実はさ、昨日アマゾンで注文しちゃった」
「おお、水沢さん、行動が早い」
「まあ暇なんでね」おどけてみせる。「ピンクと緑ので迷ったんですけど、結局ピンクのほうにしました」
「ピンクのって何ミリでしたっけ?」
「ええと、たしか三ミリだったかな」
「それなら大丈夫ですね。おうちで使うぶんには問題ないと思いますよ」曽我さんがリード先端の輪を手首にかけ、拍手する。
「やった。これでまたヨガ人口が増えました」
「そんな大げさな」
「でもやっぱ、まだ男性でヨガやってる人って少ないんですよ。あ、ヨギーって言うんですけどね。ヨガする男の人のこと」
「へえ。じゃあ今日から俺もヨギーになるのか」
「あはは。そのとおり」
 足元でケイティとシャンティが鼻先を突き合わせている。
「家でヨガやるとき、なんか参考になる動画とかありますか?」
「あー、ありますよ。ちょっと待ってくださいね」
 曽我さんが腰に巻いたポーチからスマートフォンを取り出し、ユーチューブをひらいて動画を再生した。画面上では仙人のような男性が人体の構造を無視したポーズをとっている。
「これは上級者編ですけど、この人のは字幕の解説付きでいいですよ」
 博一は動画を検索する際のキーワードをスマートフォンにメモした。家に帰ったら早速、実践してみようと思った。
「それより水沢さん、うちの教室来てくださいよ」
「曽我さんのところは女性ばっかりでしょ? おじさんがひとりで行くにはハードル高いよ」
「そんな、全然大丈夫ですって。たまに、本当にたまにですけど、体験で来ますよ。……その、おじさんというか中年の男性のかた」
「本当ですか? じゃあ上達したら行ってみようかな」
「ぜひ。可愛い人多いですよ」
 曽我さんがシャンティのリードを引き、グループのほうに向かって歩き始めた。博一もついていく。
「おはようございます」曽我さんと二人でメンバーに挨拶をする。
「あ、おはよう」
「ケイティとシャンティだ。おはよ」
「水沢っち、ライの新作動画観てくれた?」
 皆が笑顔で返事をよこしてきた。
 広場に来るようになってから一週間と少し。
 メンバーと過ごす時間は生活の一部となっていた。
 ここで学んだり聞いたりしたことを、家に帰ってネットで検索する。興味を持つ。実行する。
 すると毎日が彩りを持って輝いていくのだった。以前の日常にはもう戻れない。テレビがアナログから地デジ放送に移行したときのような感覚だ。
 散歩を始めてから人生が充実している。心なしか体調も良くなった。寝起きの体が軽いのだ。
 家の中は加速度的に綺麗になっていくし、コーヒーやヨガといった暮らしを潤す趣味にも出会えた。それもこれも休暇のおかげだ。
 いまとなっては、なぜ休暇を嫌がっていたのだろうと思う。
 気が遠くなるような時間を余してしまいそうだったから? やり甲斐をもって働く妻と自分を対比してむなしくなったから?
 しかし現にいいことづくしじゃないか。どうせなら、まだ何日か余っている有休を使って延長を申請しちゃおうかな。さすがにそれは無理か。
 散歩仲間たちと放課後の女子高生のように喋りながら、幸福感に包まれる。ずっとこの時間が続けばいいのに。そんなことも考えた。
 マンションに戻り自宅階でエレベーターを降りると、自宅ドアの前に配達業者が来ていた。大きな段ボール箱を抱えている。
「それ、水沢宛てでしょうか?」
「あ、水沢さんですか?」配達員が荷物に視線を落とす。「博一さん?」
「ええ。ちょっと待ってくださいね」
 玄関ドアを開けてシューズボックスの上に置いてあるシャチハタを持ち出し、配達員が差し出した受領書に捺印する。細長い箱を受け取り、リビングのローテーブルの上まで運んだ。
 ケイティのリードを首輪からはずして朝ご飯を用意してやる。
 はやる気持ちをおさえてソファに腰かけ、段ボール箱を開封した。
 ピンクのヨガマットは思っていたよりも軽かった。
 リビングの空いたスペースにマットを敷く。すかさずうつ伏せてみる。厚さ三ミリにしては弾力があった。値段の割には悪くないですよ、と言った曽我さんの顔を思い浮かべる。
 スマートフォンをテレビに繋ぎ、ユーチューブで例の仙人の動画を再生することにした。何百本とアップされた動画を吟味した結果、まずは《初心者さん向け 朝YOGA 背骨体操》を視聴する。五分弱の短い動画だ。
 マットの右斜め前にあるテレビ画面を睨みながら、仙人の真似を試みる。
 肩甲骨のあたりがぐっと伸びているのが分かる。だが仙人の両腕の可動域は尋常でないらしく、博一はまるで動画のとおりにはできなかった。それでも錆びきった体は歓喜の声をあげている。集中していたら動画は見る間に終わってしまった。
「ではみなさん良い一日を。ナマステー」
 両手を合わせて頭を下げる仙人に向かって、博一も頭頂部を見せる。
 ケイティはおとなしく見学していたが、動画が終わったと同時にじゃれてきた。可愛いやつめ。休暇が始まってからケイティに対する愛情が深まったように思える。
 窓を開け空気を入れ換えた。陽気な風が肌を撫で、自律神経が整っていく感覚を味わう。自律神経うんぬんは動画内で仙人から説明があった。
 あれ。もしかして俺すっかりヨギー?
 覚えたばかりの単語が頭に浮かんでおかしくなる。
 そのとき軽快な電子音を立て、ロボットが掃除をスタートした。博一はヤンキー座りで丸いマシンに顔を寄せ、睨みつけてやった。
 一日に何回も何回も出動しやがって。なんだお前。お前が喧嘩の一因でもあるんだぞ。
 意思のない無機物を相手に大人げないやつ当たりをする。
 競うようにして博一も掃除を開始する。本日のターゲットは自室の向かいにあるウォークインクローゼットだ。
 三畳半ほどのクローゼットには、由梨がアパレルショップのごとく抱え込んでいる服が所せましと並ぶ。付き合いのあるブランドの展示会でツケた服だ。
 服が届くと、由梨はまずローテーブルの上にそれらを並べる。次にウォークインクローゼットから手持ちの服を持ってきて組み合わせを考える。コーディネートが決まったら自室でお着替えタイムだ。最後はリビング横の和室にある姿見の前でファッションショーが開催される。とくにコメントを求められるわけではないが、「似合うね」くらいは発言するようにしている。女のファッションに関しては門外漢だ。自分だってなにを着ればいいのか分かっていないのだから。
 要するに、ウォークインクローゼットに収納された服は由梨の宝物だ。無許可で触るのは極めてリスキー。しかも冷戦の最中である。
 しかし家の中を綺麗にしたい欲をおさえられない。
 博一はタオルを首に巻き、服であふれかえったクローゼットに足を踏み入れた。クリーニング屋帰りのビニールをまとった高そうな服には近づきがたい雰囲気がある。身震いした。
 ええい、もうなにを言われても知らね。勝手にやるからな。
 背後でこちらを見物しているケイティに向かって大きくうなずき、作業に着手した。

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 ヨギーとしての自我が芽生え始めた数日後の深夜、定期の時間ではないのに掃除ロボットが作動する音がした。
 なんだ? こんな時間に。
 自室のドアを開け、リビングでやかましい音を立てるロボの気配をうかがう。
 さきほど由梨が帰宅する音がした。ということは、妻がスポット的にロボを動かしたに違いない。床掃除が足りないって、嫌味か? なんだよ。そうくるなら、こっちも徹底的にやってやるぞ。
 やがてロボットが部屋に侵入してきた。
 ベッドの上でライの新作動画を観ていた博一は、床を這ってくる丸いマシンに白い目を向けた。
 すると英字で描かれた社名のロゴ下に、A4サイズの紙がセロテープで張り付けてあった。ベッドから飛び降りてロボを追い、紙をひったくる。横書きで並ぶ文字を目で追う。

《私の服勝手にいじったでしょ。やめてください。それと、お風呂場の水気を完全に拭き取るのはなぜでしょうか? 私も使用したあとに拭き取らなければいけないのでしょうか? そういうことをされると、とっても過ごしにくいです。暇なのは分かりますが、同居人がいるということも忘れないでください。以下、やめてほしいこと。①私が脱いだ靴をカカトまでピタッとそろえること。ほっといてください。②トイレットペーパーの三角折り。勤務先はホテルでしたっけ? ③変なポーズをした老人のポスターの掲示。ソファで落ち着けません。④お掃除ロボを段ボール箱で包囲すること。次やったら許さないです。以上》

 太字のゴシック体で力強く並んだ文字を読み、博一はしまった、と思った。
 この前ロボを段ボール箱で囲んでやったとき、コンビニに行っている間に由梨が帰って来ていたな。あれ、見られたのか。
 リビングで立ち尽くす妻の姿を想像して背筋が凍る。
 あちゃー。火に油を注いでしまったな。
 後悔したが、やってしまったものはどうしようもない。飛脚としての役目を終えたロボットを抱きかかえ、部屋の外に逃がした。
 A4の紙を再読する。これ、会社でプリントアウトしたのかな。折り目がないからわざわざクリアケースに入れて持ち運んだのか……。
 妙な几帳面さが余計に怖かった。赤ではなく青い炎だ。見た目が派手じゃないほうが怒りの温度も高い。
 ふむ、と腕を組んで考えてみる。
家の中が綺麗になることは、必ずしも妻にとって快適ではないのだろうか。
 じゃあ共有物と、由梨の所有物に触らなければいいんだな。
 でもそうなると、もう自分の部屋しか掃除できないじゃん。掃除ロボはいいのになんで俺はダメなんだ。
 なんだか腹が立ってきた
 こうなったら妻の意見を無視するとは言わないまでも、ある程度は譲歩してもらおう。風呂場はゴムパッキン部分だけ水気を拭き取る。靴は触らない。トイレットペーパーは折らない。ポスターは位置を変える。ロボはいじめない。
 これでいくしかない。本当は、仲直りするのがベストなんだろうけれど。
 しかし博一から謝るという選択はなかった。
 まあ当分はいいだろう。休暇の期間ぐらいは。そんな気がしたのだ。
ベッドの上に戻り目を閉じる。
 眠りに落ちる直前、やっぱり仙人のポスターだけは現状維持でいこう、と思い直した。

(3/5へ続く)


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