いつかのぼくは、“きみ”が“彼女”になることを怖がっていた

自殺したことをニュースでしか認められないアイドル、知らない間に病気になっていて次に会った時にはもう人形のようになってしまっていたともだち、昨日は生きているところをお見舞いしたのに次の日電話で亡くなったと告げられた祖父、悲しいことが受け入れられなくて、自分を心配する声に反発して、痛かったのは彼女なんだから、自分が心配される筋合いなんてないと思っていた。こころなんてやわらかくて、世界なんて摂理でしか動いていなくて、人の命なんてちっぽけなのだと思った。忘れないように、忘れることが罪だと思い、笑うことが許されない気がして、毎日毎日手紙を書いた。でも、いつしかそれをしなくなって、思い出す割合が考えない時間を下回って、彼女を思っても泣かないことが増えてきた。漠然と想像していた未来には彼女がいたりいなかったりした。会わない日が続いても、更新したSNSを見た。ラインがくれば、話した。SNSで話していたことは、話題にされない限り触れなかった。ライン上のリアルに近い彼女と、アカウントの彼女は、同じなのに少し違った。最後に話したのはいつだったんだろう。声を聞いたのは。数ヶ月ぶりに会った彼女は、花に囲まれて横たわっていて、今思い返したら不謹慎にも綺麗だったと思ってしまうのだけれど、当時の自分はなにも受け入れられなかった。受け入れられないのに目の前に横たわる彼女に息はなくて、頭で理解するなんてあくまでこちら自身に選択権があったのだと思い知らされる。強制的な理解。死という概念。ぼくの見てきた世界に、なかったもの。当たり前に話していた人間が、もうこの世にいないということ。目の前にいるのにいないこと。寝ているんではない。世界からの遮断。寝ている時は起きるまで、意識があったのかどうかわからない。夢を見ない日は、意識がなかったも同然。暗闇で、自分の意識以外、体の外側でただ時間が過ぎて、意識を取り戻して目が覚める。死ぬというのも、その暗闇だったらいい。魂の消滅だったらいい。ふっと目を瞑って、暗がりに落ちて落ちて、ふつと消える意識。眠る感覚。死の最終的な場所は、そこでいい。死にゆく人にとって、死の瞬間が全ての終わりで良いのだ。死者の世界なんていらないし、雲の上なんて、じゃあ快晴の日は会えないただの寂しい日じゃないか、と思う。星になった、なんて、星なんてただの惑星か恒星で、物質の違う地面がそこにあって、こっちからただ輝いて見えるだけ。あんな無機質な土地に彼女がなるわけない。人が星にロケットでたどりつけてしまう未来がこわい。みんなみんな知ってしまうのだ。星がただの物質であることを。大切な人が星なんかになってはないことを。あんなもの、死後の姿ではないから。だからやっぱり、死んだら消えるのだろうと思う。ぼくが死んだら、死んだ後の世界であの子に会いたいと思えるだろうか。また会ってどうするんだろうか。泣いたことも、泣かなくなったことも、彼女が知っていたとしたら?あの子よりも年上になってしまったぼくを彼女はどう思うだろうか。思うもなにも、ないはずなのだ。彼女はもうどこにもいないし、触れることも叶わない。彼女だけがこちらを見ているなんてそんな都合のいい生者の幻想に縋っていたくないのだ。死んだら消えたい。意識などもういらない。物質的な消滅は、起こり得ない。肉が焼けようと、骨を砕こうと、そこに灰は残る。風に舞おうと、ひとつまみの単位で存在してしまう。でも、死んだら意識はなくなるのだから、そのことに魂が抜けるという表現をあてるのなら、抜けるのではなく消滅がいい。天国も地獄も、生きているから求めるのだろう。死ぬことが怖いから、生きていることがつらいから、正当性を見つけたがってこんな世界を作り出したのだろう。大切な人を亡くすつらさが、生に、死に、救いを求める弱さが、人間にそうさせるのだろう。神話と何ら変わらない。それを信じることと同じように、魂の消滅をのぞんでいる。
だからぼくは、死んだら、ふっと、煙が風に消されるように、消えてしまいたい。

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