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裏切らないのが友だちか

今回のテーマ:友だち

by らうす・こんぶ

「友だち」ということばを聞くと数人の顔が浮かんでくる。最近よく会う友だちの顔がまず浮かび、それから最近は会ってないけど以前はよく会っていた友だち、そして、もう数十年も会っていない友だちの顔が浮かぶ。よく会うと言っても、私の場合は多くても年に数回程度のことだが。

友だちの定義は人によってちがうだろう。親友も悪友も遊び友だちってのもあるし、友だち以上恋人未満というのもある。これは数学的に解釈すると、限りなく恋人に近かったとしても「友だち」の範疇で恋人ではない。中学か高校の数学で、20歳以上30歳未満という場合は20歳は含まれるけど30歳は含まれないと習ったよね。

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友だちについて辞書はどう言ってるかというと…。

一緒に何かをしたり遊んだりして、気持ちの通い合っている人。友人。(新明解国語辞典)

勤務、学校あるいは志などを共にしていて、同等の相手として交わっている人。(ウィキペディア)

本当の友だちとは、一般的には〝何があっても裏切らない〟 〝自分のことを心から信じてくれる〟 といった、信頼を寄せる相手のことを言います。また心理的には〝自分の存在を否定することなく肯定し、愛情を与えてくれる人〟のことを指します(ネットで見つけた某心理カウンセラーの意見)

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私の場合は、新明解国語辞典とウィキペディアの定義は、学生時代の友人には当てはまるが、大人になってから得た友人には当てはまらない。学生時代までは友だちと一緒に過ごす時間が確かに多かったが、社会人になってからはフリーランスとして仕事をして来たこともあって圧倒的に一人で過ごす時間が多くなり、人との付き合いは希薄になった。また、それをよしとしていた。

だから、むしろ会わない時間が長くても、久しぶりに会ったときに、お互いがそれぞれに過ごして来た時間の豊かさを感じられる人を友だちだと思うようになっていった。私にとってはそういう経験をさせてくれるのが友だちだろうか。会う頻度や一緒にいる時間の長さは関係ない。

もうひとつ友だちの条件があるとしたら、思い出を共有しているということかもしれない。楽しい思い出だけでなく、一緒に辛い経験をしたということも含めて。学生時代はそれほど親しくなかったのに、それから数十年も経って久しぶりに会ったときにかつてよりも親しみを感じることがあるのは、たくさんの思い出を共有しているからじゃないだろうか。

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一般的には上記のカウンセラーのことばにあるように、〝何があっても裏切らない〟 〝自分のことを心から信じてくれる〟ということも友だちの条件とされることが多い。

たまに「信じていた人に裏切られた」とか「友だちに騙された」という話を聞く。私はさいわい、裏切ったことも裏切られたこともない(自分の認識では)。でも、それはラッキーだっただけと思う。メロスとセレヌンティウスだって、親友に対してチラッと「自分を裏切るのではないか」と疑いを抱いたじゃないか。「走れメロス」を読んだことのある人なら、本当の友だちとは〝何があっても裏切らない〟 だなんて安易に言わないだろう。「何があっても裏切らないのが友だちだ」と言えるのは、切羽詰まった状況に置かれたことがない、ラッキーで幸せな人だけだ。

友だちがもし私を裏切ることがあったら、私は、「何かよほどの事情があったのだろう。友だちを裏切らなければならなかったなんて、身を切られるように辛かったに違いない」と思うだろう。そんなふうに思えないような相手を、私はそもそも友だちだとは思わない。



らうす・こんぶ/仕事は日本語を教えたり、日本語で書いたりすること。21年間のニューヨーク生活に終止符を打ち、東京在住。やっぱり日本語で話したり、書いたり、読んだり、考えたりするのがいちばん気持ちいいので、これからはもっと日本語と深く関わっていきたい。

らうす・こんぶのnote: 

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