自分を「僕」と呼び始めた女の子のお話
こんにちは。ねうです。六月は、PrideMonthということで、Instagramで一人称を「僕」に改めたことを報告しました。まだSNS上でしか、一人称を改めることができないけれど、少し自分が生きやすくなりました。
今日は、僕の思う性別について、LGBTQ+について少し綴ります。
性別について僕が思うこと
前々から、僕は自分は中性でありたいと考えていました。
それは、性別:女性が嫌だとか、そんなことではなくて、ただ僕は性別という考えがあることが嫌いです。性別という考えがあるから、たくさん悩むことがあるのだろうな、と思うのです。
個人的にアンケートを作ったりすることが多くなる中で、ペルソナにあった思案をしていくわけで、その中で必須なのが、性別です。性別によって、考えや価値観が違うのは知っています。だから、質問にその枠がある重要性もわかっています。
でも、僕は悩んでしまいます。
自分が世間的に見て、女性であることの理解はあります。ずっとそうやって生きてきて、自分でも「僕は女性だ」と認識しています。だから僕は、タイトルに「女の子」と書けるのです。
(自分がちゃんと誰の前でも「中性」でいられたら、「女の子」ではなく「一人の人」と書けるようになるのでしょう。(その日はいつ来るのでしょう。))
自分が周りから見て性別的にどう映っているのかを知っているせいなのか、僕が自分を男性と考えることに違和感を感じるせいなのか、僕は結局のところアンケートの性別欄に「女性」と答えてしまうのです。
しかし、女性と答えることにも最近になって、少し違和感を感じてしまうのです。
結果的に僕は、僕の中に「これだ!」といった性別が見つかっていません。わかるのは、自分は「女性」と周りから見られている自覚と、でも僕は自分を「女性」とも「男性」とも思えなくて、でも、僕は可愛くもかっこよくも生きたいと思っている、ということです。
僕も性別についてはわかりません。わかるのは、性別よりも個性の方が大切だということです。
僕、と名乗ること
僕、と名乗ると、心が楽になるように感じます。
SNS上で慣れたい、という気持ちや、まだ現実で言うのには抵抗がある、という面から、僕はSNSでしか僕という一人称を使っていませんが、慣れてくると、独り言でも「僕」と言えるようになってきました。言葉に出して「僕」と呼ぶのは、またSNSで名乗っている感覚とは別物で、もっと気持ちがいいものなのだと気づきました。
僕は、「僕」と名乗ることになんの違和感も覚えていません。それと同時に、「私」と呼ぶことにも違和感を感じません。
でも、「私」と名乗っている間(Face to faceで人と話している時)、僕は本当にその一人称でいいのかな、と考えてしまうのです。それは僕が「僕」と呼び始めたことに理由があるのか、僕が「私」であることに違和感を感じているのかわかりません。(「私」であること、女性であることに違和感はないのに、何か違う、と言った感情です。)
SNS上で、一人称を僕に変えたことを少し書いてみると、「いいね!」という反応をいくつかもらいました。
僕なりの考えで、何もLGBTQ+とかトランスジェンダーでなくて、僕が生きやすくなりたくて、そうやって報告をしてみて、それが誰かの心に「いいな」と響いたのなら嬉しく思います。自分らしさとして届いたのなら嬉しく思います。
それと同時に、僕は深く考えないで生きやすくなりたくて、一人称を変えたので、変え始めてから、僕は性別が行方不明になって自分自身を困らせてしまっています。
でも、僕は「僕」と名乗ることが、自分らしくて好きだと思えるのです。
僕の性表現について
中性になりたい、とは言いましたが、僕は僕で私なので、今は名もなき性別を生きようと思っています。
SNSで少し公表をしてから、一度は自分のはっきりとした何かが欲しくて、「ノンバイナリー」や「Xジェンダー」やなんやらを調べてみました。
僕は、自分が女性であることが嫌だとは思っていません。そして、僕はただの「僕っ子」でもありません。僕は、普通の女の子でありたいのです。それと同時に僕は僕でありたいのです。
(僕、と名乗っている以上、他人から普通だと思われにくいのは承知ですが、あくまで僕は誰かと同じ人間でありたいのです。)
僕が調べた結果、至ったのは、僕は僕で私で、まだ今は自分に合った表現を探そう、ということ。
僕が性別をどうでもいいと思うあたりは、きっとノンバイナリーにも当てはまるのでしょう。
(この「どうでもいい」は自分のことも、他の人のこともそう思います。だから、僕は好きな人の性別がどうだろうと、はなからどうでもいい、という考えです。)
僕が女性にするのか中性にするのか迷っていたり、名もなき性を生きたいと思っていたりするあたりは、きっとクエスチョニングにも当てはまるのでしょう。
そうやって自分でも少し知るようにしてみて、僕が思ったのは、この先自分に当てはまる答えがあろうとなかろうと、僕は僕で私で、僕はこの先もずっと僕なんだろうということです。
性別があることが答えみたいになっている世の中、社会ですが、性別は空っぽなのだと僕は思います。
見た目だけでは判断できなくて、価値観も性別によって偏りがあっても、結局はその人その人で違った価値観を持っていて、好きになる人だって、人それぞれで、性別があることでわかるのは、何もないのです。
だから、僕は、まだ自分の性表現を決めないで生きたいと思います。
LGBTQ+について僕なりの考え
僕個人の意見としては、皆が皆らしく生きているのであれば、その単語すら必要ない、と思います。誰が誰かを区別するのが好きなこの世の中だから生まれてしまった言葉であって、区別する必要すらない、と僕は思います。
その考えが嫌いだとか、認めないだとかの話ではなく、そもそも性別で一種の基準があるこの世の中が僕は苦手です。生きづらく感じます。
区別する必要すらなく、皆が皆らしさを持って生きれば、性別の枠すら必要ないのです。
性別の枠で、こうしなさい、だとか、女性らしく・男性らしく、などの考えがあるから、僕は悩んでしまいます。
僕は僕らしく、でありたいのであって、性別の枠で決められた「らしく」では生きたくないのです。
名もない性別でいいと思います。
個性、という枠でもいいと思います。
誰かが誰かを押し殺して、より一層生きづらくさせるなら、そもそも性別の枠がなければいいのだと思います。
最後に
色々綴りましたが、結局僕が言いたいのは、
性別に答えなんてなくて、その人がその人をどう演じて、どう生きるか、その人の個性をどう生かすかが大事だ
ということです。
僕の場合は、僕が私と呼びながらも、僕として少しずつ自分を持ち始めて、僕の少し変わった性格を僕自身がちゃんと認めて愛してあげるのです。それが、僕の個性の生かし方なのだと思います。
またいつか、僕でなく、私に戻す時も来るかもしれません。その時も、自分自身がそれを認めて、愛してあげたいと思うのです。
ねうでした。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?