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40代から変わる人生「記憶の道具」10

ドッツ・コネクテッド

 先週、JASTJ (日本科学技術ジャーナリスト会議) の月例会で、国立科学博物館の篠田謙一館長をお招きして話を伺いました。「人類の起源 古代DNAが語るホモ・サピエンスの『大いなる旅』」(中公新書)という名著&ベストセラーの著者というと、思い当たる方がいるかもしれませんね。   
 実は、去年の3月に「ゲノム配列を核としたヤポネシア人の起源と成立の解明」という大型研究プロジェクトが終了しました。ヤポネシア人というのは、「日本列島人」ということなんですね。その日本人の起源についての、ホヤホヤの研究成果を聴けるとワクワクしながら参加したわけです。

 日本列島に最初にヒトが来たのは4万年前ぐらい前だといわれています。このヒトたちは、その後 3万年ほどの長期にわたって孤立して発達し、独自の文化を育みます。縄文文化ですね。日本のガラパゴス文化その1です。弥生より縄文文化の方が好きな日本人が多いようですが、そういうところと関係があるのかもしれません。
 さて、その後(3~4千年前)、あらたに大陸からドッと人がやってきて(弥生人?)、縄文人と混血して現代人になったというのが定説でした。これが二重構造モデルといわれるものです。
 ところが、その後の古墳時代に、もういちど大量に移民がやってきて、三重構造になっているというのが最新の考え方のようです。つまり日本列島には、4万年前の縄文人、3000~4000年前の渡来人①、1500~2000年前の渡来人②、の三つの波に分かれてヒトが入ってきて混血して現代人になったというわけです。
 その第三の波となった渡来人がどこから来たのか? 篠田先生の話ではどうも百済あたりではないかということでした。私の頭に、唐と新羅の連合軍が百済に攻め込み、その百済に味方して天智天皇が派兵し大敗したのが白村江の戦い(663年)という記憶が浮かびました。この戦に敗れた百済の人たちが大挙して日本に来たのかと思ったので、「第三波は7世紀後半のことですか?」と訊くと、「もっと前から来ていた」というお話でした。

 たしかに考えてみれば、百済に援軍を送るということは、それだけ深い関係が以前からあったということですよね。そしてそれは、現代人につながる遺伝子構成に影響を与えるほど大きなものだった。
 ドッツ・コネクテッド(Dots connected)という英語表現があります。いろいろな事実(点)がつながって、あるときパーッと理解が進む、そういうときに使う表現ですが、篠田先生の古代DNA研究の話を伺っていて、そんな気になりました。

 好奇心が湧いてきたので、さっそく白村江の戦いにまつわる歴史を調べてみました。私の日本史の知識の中で白紙に近い領域です。
 ご存じのように6~7世紀の朝鮮半島では高句麗・百済・新羅の三国が覇を競っていましたが、紆余曲折を経て新羅の要請を受けた唐が新羅と組んで百済を攻め滅ぼします。この計画が進んでいたころ、遣唐使の役割には、この唐の動きを諜報することが含まれていたようです。学者というよりスパイですね。唐の方も、百済と親しい倭国に情報が漏れないようにと、遣唐使を洛陽にとどめ、出兵計画が伝わらないようにしていたようです。まるで現代の情報戦をみるようです。
 唐・新羅軍が百済を滅ぼしたとき、なんと百済王の余豊璋は倭国を訪問中でした。ヤバイと感じて逃れていたのでしょうか。日本は百済といい関係にあったわけですが、もちろん中国王朝(唐)とも良好な関係にありました。滅亡後、百済の遺臣たちがこの百済王を擁立して復興しようとし、倭国に支援を求めます。日本は、外交政策上の二者択一を迫られるわけです。
 中大兄皇子は親唐・新羅派だったという説もあるようですが、結局、百済難民を受け入れ、唐・新羅との対立を決意します。これが白村江の戦いになるわけですね。この後、朝鮮半島は、唐の冊封国となった新羅によって平定され、倭国は唐に逆らう唯一の近隣国となります。遣唐使は廃止。いつ唐から侵攻されるかわからないという脅威論を背景に、天智天皇・天武天皇・持統天皇は、国防を強化し、専制的な統治体制を備えた新たな国家の建設に努めます。国名も日本となったのもこのころでした。天智天皇は、勢力を拡大していた国内の豪族を排除し、軍制を整備することを目論んで、敗戦を覚悟して参戦したという説もあるようです。
 調べてみると、この時代、むちゃくちゃおもしろいですね。ぜひ大河ドラマでも取り上げてほしい!と思います。

 ちなみに、篠田先生によると、この古墳時代の渡来人との交配で、当時の日本人は非常に多様性に富んでいたということです。それが落ち着いて今のような状態になったのは中世以降だということでした。それほど大量に渡来人を受け入れたということですね。

最新の研究で、日本人の遺伝子の三重構造が明らかになってきた

 話を戻しましょう。この講演会では縄文人についての質問がたくさんありました。篠田館長は「縄文人に興味のある人が多いですね」と笑われながら質問に答えておられましたが、どういうわけか「ホアビニアン」という名前が出てきません。というのは、ちょうどこの1か月ぐらい前、ホアビニアンというヒトたちが縄文人の源流だというNHKの科学報道番組がありました。それを覚えていたので、「縄文人の祖先はホアビニアンではないのですか?」と訊くと、「ホアビニアンというのは文化の名前ですね」と、ヒトの種ではないと前置きしてから、そういう見方もあるけれども自分はそうとは思わないという話をされました。
 私はNHKの番組を観て、てっきり「縄文人の祖先=ホアビニアン」だと覚えていたのですが、どうもそう簡単ではないようです。知識のクロスチェック、重要ですね。おもしろいですね。好奇心が刺激されます。こうして知識がアップグレードされる。
 そういう知る楽しみが続けられるのは、「キオクの達人」があればこそ、というお話でした。

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