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母に抱きしめられた思い出

いわゆるスキンシップのような行為を、両親からされた覚えがほとんどありません。

特に母に関しては、こちらから行うことも含めて、抱きついたり手を繋いだり等の触れ合いの思い出がほぼ無い。
温泉や銭湯を除いた自宅のお風呂ですら、ちびっ子の頃を含めて、一緒に入ったことがあったかも正直覚えていません。

娘から見ても不器用な人だし、そこを重々承知しているので恨み言などは無く。
そういやほとんど記憶にないなぁ、と思う程度です。


それでも唯一、覚えている出来事があります。

小学校低学年の頃に両親が離婚して、母の実家がある町へと引っ越すことになりました。
学年が変わる4月頭のタイミングで引っ越しを終え、新しい学校へ転入し、父の存在が日常から消えた。
そんな感じで生活が一変したわけです。

引っ越し後、最初の2か月と少しの期間は、母の実家に住まわせてもらっていました。
住む家の準備が整い、母と二人の娘(私と妹)の三人での生活が始まったのは、6月に入ってからです。

私、6月が誕生月なんですね。
だから本当の意味で新生活のスタートを切って間もない時期に、誕生日の当日を迎えることになりました。

朝でした。
部屋の中が明るかったので、晴れていたんだと思います。
真正面から思いっきり強く、母に抱きしめられました。

当時はまだ母よりも背が低かったので、埋もれるような感覚でした。
その前後にどういう会話を交わしたか、その後どういう空気になったか……などは忘却の彼方。
ただ、とても強く抱きしめられた感覚と、珍しいと思ったことだけを覚えています。




雪舟えまさんの歌集『たんぽるぽる』をご存知でしょうか。

この本に、以下の短歌が登場します。

逢うたびにヘレンケラーに[energy]を教えるごとく抱きしめるひと

『たんぽるぽる』18頁より引用

歌集を読んで、この短歌を初めて知った時は、恋人同士を連想していました。
「会う」じゃなく「逢う」だし。
なんて微笑ましい愛情……とほのぼのしたものです。

けれど今は、あの誕生日の朝が脳裏によぎります。
当時はまだ言葉で表現できなかったけど。
あの時、とても切実な祈りのような抱きしめられ方をされたんだと、振り返った今は思うんです。
そんな抱擁は、必ずしも恋人同士だけのものではないんだと。


母は早婚だったこともあり、比較的若い年齢で私を産んでまして。
「ちびの娘二人を女手一つで育てていく」と決心した当時の母の年齢を、今の私はもう追い抜いています。

当時の母の心境へと思いを馳せる度に。
そして奔放に生きている今の自分と比べる度に、自然と敬意が湧き上がる。
それを、ちゃんと言葉にして伝えたい。


書いているうちに整理されて、引き出される心情ってのもあるんだと思います。
照れるけど頑張りどころですね。
お読みいただき、ありがとうございました。

#66日ライラン42日目


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