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読書好きと罪悪感

読書が好きだ。

何かポジティブな理由があってそうというわけではなくて、小さい頃から本を読むくらいしかすることが無いみたいな時間が多くて、手っ取り早い暇つぶしの方法としてすごく重宝してきたという感じだ。
それでも小さいころから本を読み漁ってきて今も飽きていないわけだから、読書好きと名乗っていいだろう。


考えるのである。
なぜ私は読書が好きなのか。幼少期から、往々のことに対してはどうもやる気が生まれず、周囲との馴染めなさを感じることも多かった。しかし読書に関してだけは割と能動的に挑み続けていられるのであった。
その理由を色々と考えたりしてみたのだが、結局、"本"という媒体の力が大きいという結論にたどり着いた。


本は、どこまでいっても受動的である。
やつらは私たちを誘惑するけれども、それもすごく控えめであるし、「まぁお暇があれば良かったらどうぞ」くらいのもんである。インターネットや各種のサブスクアプリが広告をバンバンと打ち出してこちらを引きずりこもうとしてくるのとは、その積極性が大違いである。
本の内容が攻撃的でこちらにぶつかってくることはあるけれども、それでも大抵精神的な猫パンチくらいのダメージだ。
どれだけ本の内容が厳しくて強くあろうとも、こちらに身体的な不安感や命の危険を感じさせることはない(一方、深夜までスマートフォンをいじってしまったときに感じる毒々しい心身の重みたるや……)。
そんな本という媒体の受け身の姿勢、言い換えればこちらから歩み寄らなければどうしようもないという孤高の存在っぷりが、私の心を刺激し続けるのだった。


それでいて、罪悪感である。

本はこちらを攻撃してこないことをわかっているからこそ、読書好きとしてグイグイいける面がある。逆に私は、こちらに攻撃してくる可能性のある物事に立ち向かっていく勇気があまりない。正直、読書(と食事と風呂)以外のことから与えられる刺激はほとんどすべて怖い。
突き抜けた臆病なのである。
実際によくいろんなことから逃げて、そしてまるで避難所に駆け込むかのように本の世界に飛び込んでいる。
そのことに対して、罪悪感というか、本を免罪符にしていいのかと感じることもあるのだった。

でも、読書は好きだ。
生活には色んなことがあって、辛くて苦しくて逃げたくなるようなことばかりだけども、そんな中にパっと光るフラッシュライトのような輝きを感じられることがある。そういう刹那的な光を感じ続けられる心を保つために、読書をしている面もある。

本は、人生が無意味で儚いこと、その瞬間瞬間がどうしようもなく美しいことを教えてくれる。
物語は、わたしたちの人生はとるに足らないけれども、だからこそかけがえのないことを教えてくれる。

そんなメッセージを受け取る機会を自ら手放すこともないよなぁと思って、今日も私は本を手に取るのだった。
少しの罪悪感とともに。


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