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働くということ

社会で生きていく上でお金はなくてはならないものである。

一部の例外を除けばそこに疑いの余地はないだろう。

ではそのお金を得る手段として最も普遍的な手段が何かと言うと、労働である。

ほとんどの人間は、自分が親元を離れ一人で生活を営む上で、何かしらの仕事をし、それで得る稼ぎで生活を営んでいる。

今回は、その当たり前を少し噛み砕いて考えてみたいと思う。

人が生物として生命を維持するためには、まず何よりも食料が必要不可欠だ。

類人猿が発生して間もない頃は、食料にありつくための手段は狩猟や採取であっただろう。そこの社会的な営みはほぼなかったと言って差し支えないだろうし、その生命維持活動はどこまでも個人的なものであったと考えて良いはずだ。

ではその個体が群れをなし、コミュニティを築き、社会生活を営むようになる。

種として、生命の源たる食料を確保するための様々な発明がなされてきた。

それは農作であり、貯蔵であり、加工であり、はたまたそれら全てのシステムであった。

かつて自分一人を食べさせるために発揮しなくてはならなかった能力というのは、必ずしも生命維持のために用いられなくてもよくなった。

個体間には能力の差があり、またある個体群が生息する環境によっても食料の獲得能力の差が事実として認識されるようになっただろう。

海に近いものは魚を捕り、山に近いものは獣を狩る。

土壌に恵まれたものは穀物を栽培し、そうでないものは加工した食料を貯蔵する術を獲得した。

そのような群れ単位、あるいは個体単位での差が生まれるようになると、それぞれがそれぞれを補い合って生きるようになるのは至極自然な成り行きだろう。

自分が生み出せるものを、自分に必要なものと交換する。

自分にないものを、自分が発揮できる能力をもって補填する。

恐らくこれが最も原始的な物々交換による人間の経済活動の起こりであり、やがてそれはコミュニティ内で共通の価値を常に保障する貨幣にとって代わられた。

大分長い前置きになったが、その起こりを考えると、やはり労働の本質というのは、働いて何かを生み出すことに先立ち、その対価として自分が望むものを得る、という方が正しいような気がする。

「あなたが獲った魚が必要なのでください、代わりに私が採集した木の実を差し上げます。」は想像に難くないが、「魚をくれるというなら、手ぶらで帰すのも悪いのでこの木の実を持っていくといい。」というのは少し違和感がある。

人に必要とされる何かを生み出す、その対価として自分に必要なものを得る。

給料をもらうから働くのではなく、働くから給料をもらうのだ。

なんだかお堅い文章だが、

誰かに「ありがとう」と言われることをして、生きるためのお金をもらう。

人に必要とされることは時代と共に多様化しすぎているが、案外と労働の本質はシンプルなのかもしれない。

満足にお金をもらえない、と文句を垂れる前に、より多くありがとうと言われる自分の使い方を心がけようと思う。


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