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当麻の記憶#5 北星地区と消防団の昔話

伊藤昭さん(昭和3年3月5日生)は、北星地区に生まれ、今も旧北星小学校裏に住居を構えています。
北星小学校がある土地はもともと伊藤家が所有する土地でした。学校を建てるにあたり別の土地と交換し、学校が建てられました。当時は子どもも多く200人程の生徒が通っていたそうです。

現在の旧北星小学校(平成15年閉校)


北星小学校旧校舎(昭和5年落成)


スキーはすぐ近くにある将軍山で楽しんでいました。北星小学校に向かう側の急な斜面で滑り、麓にある雪に埋もれた小屋をジャンプ台に使っていたそうです。学校のスキー授業でも将軍山を使っており、山までは学校の裏側からスキーを履いたまま、田んぼの上を通り向かったそうです。将軍山の方面に住む子どもはスキーで圧雪されたこの道が近道になることから、冬は通学に使っていたとか。

北星小学校裏側からは将軍山を望むことができる


戦時中、隣接する緑郷地区は軍用地だったため土地に入ることはできませんでした。軍用地の麓にある現在の北星3区は、「袋地」と呼ばれ、北星とは違う地区として扱われていたそうです。

軍用地だった北星3区(木の生えているエリア)。戦時中は足を踏み入れることはできなかった


伊藤さんは19歳の時、北星地区の消防団(第四分団)に入団しました。44年間在籍し分団長も勤めました。入団当時は戦時中だったため若い力が足りなく、今よりも頻繁に火災が起きていたため、現場の最前線で消火活動を行っていたそうです。この頃は人力で水を汲み上げ放水する腕用(手動式)ポンプを使用していました。4人でようやく持ち上がるほどの重さで、現場についた頃には体力が消耗し、消火活動では役に立たなかったそうです。


手動式の腕用ポンプ


その後、ラビット消防ポンプと呼ばれるエンジン式のものに変わりましたが、導入当初はリヤカーに載せ、自転車でけん引し現場に向かうというやはり体力を消耗するものでした。オート三輪が普及し始め、荷台に載せ移動できるようになりましたが、舗装されていないでこぼこ道だったため、3人掛かりでポンプを抑えながらの移動で、頭をぶつけたりと怪我が絶えなかったそうです。
長年、町内の火災現場で消火作業を続けてきた伊藤さん。北星地区にある民家に隣接する納屋が全焼した火災が一番壮絶だったそうです。伊藤さんとも
う一人の若手が母屋を何とか守ろうと必死でノズルを握り、何とか母屋に燃え移るのを防いだのですが、ほっとして消防番屋に戻り、お互いの顔を見
合うとそれぞれの顔半分に火傷を負っていたそうです。
昔は“チンピラ”と呼ばれる人が当麻にも多くいたようです。消防団の飲食の席で難癖付けてくる人もいたのだとか。ですが相手は力自慢の隊員さんたち。逆に伸されて逃げていったとのことです。

現在の北星分団(第4分団)