Who Wants To Live Forever?

 劉慈欣作「三体」三部作の感想です。ネタバレあり。


 このところchatGPTをはじめとしたAIたちが世間を賑わせ、シン・仮面ライダーが公開され、そんな中私に三つ目の星として現れたのが「三体」だった。

 「三体」は太陽の向こう側からやってきた。これは私にしか意味を成さない比喩だ。

 全てを読み終わった時、私は作者の年齢を確かめた。そして安堵した。まだ希望は潰えていないと知った人類のように。

 そして焦った。残された時間は僅かだと知った人類のように。

 誤解を恐れずに、というか誤解も何もないのだけれど、私は劉氏がどうやってこの「三体」三部作を書いたのか分かるような気がした。これは直観だ。しかしひとつめを読んだ時にはそれを感じていた。

 劉氏はかなり長いこと、恐らく大学時代あたりから、この本の構想を練っていたのだろう。もっと前かもしれない。その始まりは本人も知らないと思う。だから誰にも分からない。
 まるで智子を前にした面壁者のように、その芽が出るのを待ち、静かに動いた。少しずつ、しかし着実に。

 この作品の前身となる短編集がいくつかあるということは最初のあとがきにも記されていた。それは私にとって、あの星が消え去ったのを確かめたのと同じように、事実を確認したものに過ぎなかった。

 「三体」はある意味で傑作であり、ある意味で凡庸である。

 傑作である、という意味は、結果論に過ぎない。世界中がこの作品を絶賛した、特に重要視されている人物が、賞が。それだけ。凡庸である、という点は、この作品は誰が書いてもよかったし、いつの時代に書かれても良かったし、どの国で書かれても良かった、ということ。ただ劉氏が偶然その席に座ったに過ぎない。羅輯が偶然その席に座ったように。


 この作品には、これまでの人類の様々な創作が詰め込まれている。仏教、キリスト教をはじめとした宗教、全体主義や社会主義といった思想、そしてさまざまな物語。これらもどれが選ばれても良かった。たまたま劉氏が剣を握ったから、中国文明が、中国の歴史が舞台となった。文革から話が始まった。

 いや、劉氏はこれほどの大作を書いたのだから、偶然などではないのでは?才能が必要だ。確かに。そうかもしれないし、そうではないかもしれない。私に言えるのは、その才能はこの大作に比べたら小さいということだけ。
 一見大きな物語に見えるが、ひとつひとつのアイデア、ストーリーはどれも鋳型がある。各章は断片的だ。原作と翻訳版で順番が入れ替わっている部分がある程度には。だからこの話はどこから書き始めても良かった。思いついたら書き溜める。だからいくつかの短編が先立って発表されている。
 しかし、やはり、誰でも書けたとは言えない。これは根気強さ、執着心、時間、その他なにかは分からないけれど、一部のひとにしか与えられていないものを使う必要があったから。けれどこれほど世界を動かしたにしては小さなもの、ではないだろうか?


 三体第三部では、物語のなかの物語が示される。一つ下の次元へと落とされた隠喩あるいは直喩だった。
 この「三体」そのものが現実の射影だと捉えられる。劉氏がそう言った通り、三次元を二次元に投影したものだ。
 この本はあり得た一つのルートを示しただけ。つまり、劉氏はあり得た作者のひとりというだけ。他に無数のパラレル・ワールドが広がっている。中国で人文主義が花ひらいたら、これはヨーロッパ人が書いた本だった。コロンブスがアメリカ大陸にたどり着く前なら、これは日本人が書いた本だった。そんなふうに。内容も大きく違っただろう。その時代、文明に合わせて。しかし示す内容は同じ。
 三体世界と人類とが別々の形に進化したように。しかし暗黒森林理論にたどり着いたように。それを超えたように。たくさんの文明が、小宇宙が、次元があったように。終着点はどれも同じだったように。

 これは人類が皆で力を合わせて書いた作品だとも言える。あたかも神が劉氏の身体をただ借りただけ、といった感じに。いつかどこかでこの作品は書かれる。どこかの宇宙では。




 こんな重苦しいノリの文章はやめて、もっと軽く書こうかな。日本人で良かった、と思う、この作品を読んで。でなくちゃこの端々に香る”オタク”臭は感じられなかったんじゃないかと思うから。もちろん、過去の有名SFが、特に英米の作品が山ほど出てきたから、そちらの国の人たちだって別の香りを嗅いだかもしれないけれど。
 でもガンダムが、銀英伝が、エヴァが、攻殻機動隊が、セカイ系が与えたのは大きな影響だ。小松左京が、光瀬龍が、伊藤計劃が、その息吹を直接吹き込んだのだ。たぶんね。誰も知らなくて、わたしが勝手に匂いを感じただけかもしれないけど。これらの作品だって、必ず過去の作品の影響を受けていて、それは直接的には海外のSF小説や映画で、間接的には世界中の全て、人類の全てだけれど。


 銀英伝ははっきり出てきた。わたしはまだ読んでないし観てない、実はね。これで観る覚悟が決まった。カミーユ、女みたいな名前だね。実はガンダムもほぼ観てない。台詞だけ知ってる作品が多すぎる。
 攻殻機動隊は見終わったばかりだ。智子が日本人女性の名前でもある、と読んだ瞬間、あの顔が浮かんだ。あの名前ももう一つ読み方が、意味がある。
 エヴァは珍しく知ってた。でも初めて観たのはシンエヴァが公開されたあと。あの光速移動用の液体、LCLじゃないですか。執剣者から弾き出される数字はシンクロ率のよう。ゼロの向こう側の宇宙?マイナス宇宙だ、イマジナリーの世界だ。
 新海作品は、実はエヴァよりも前に観てる。でも悔しいことに、セカイ系の一種だということは、あとがきで指摘されるまで気が付かなかった。
 「百億の昼と千億の夜」を読んだのは10年以上まえだろうか。すぐに思い出した。VR三体がその記憶をすぐに呼び出した。

 「三体」は想像もつかないほどの展開だ、なんて言う人も多いけれど、わたしにとってそんなことはなかった。反応は少し遅い、けれど大抵次の予感があった。ゴーストの囁き?
 二部が終わった時、この先が楽しみで、そして怖くて、しかし全く「これで終わり」とは思わなかったから、二部で終わりでも良かったのでは?という感想が散見されたのもびっくりした。

 ああ、ついでに、物理化学を勉強したことがあったのも良かったかも、赤方偏移とかも、個人的な趣味で少し勉強したし。世界史も好きで良かった。コンスタンティノープルの場面はとても美しかった。ありありとその光景が浮かんだ。戦乙女は四次元空間の使い方を直観した。

 未来を考える時、なんとなく遠い先の人類を思い浮かべている。そこにはエデンの園が広がっている。飢えも争いもないこの世の楽園。もしかしたら電子基盤の上のデータだけになっているかも。そして人類はそこに辿り着かないことも想像する。限りなく近づくチャンスはあるとも。いや、必ず、ブラックホールに落ちていく時のように、永遠にそこへ、楽園へ、近づき続けることも。

 だからその一歩にほんの少しでも参加しようといつも思っていた。「三体」を読んで、生まれただけでもうその参加者だと気づいたけど、わたしはもっと欲をかいている。章北海のようになりたいのかな。でもいちばん共感したのは葉文潔だ。わたしは楽園を望んでいるのに、いまの人類には嫌気が差していて、さっさと滅びたらいいのにと思うから。
 でも、三体で示されたとおり、そしてわたしの考えでも、一瞬にして人類がゼロになる、というかする、ことはたぶん不可能だ。意図的か偶然かは分からないけれど、誰かは必ず生き延びると、わたしはなぜか信じている。だからその誰かが、楽園を創ることを望む。せめて、その姿だけでも垣間見て欲しいと。

 だからもっとやるべきことを探して、地道にやろう、それが生きる意味。命をかける意味。その点では仮面ライダーと同じ。

 死にたがりのわたしに、やっぱり生きる意味を見せてくれるのも、にんげんなのだ。

 愛なんてただの神経伝達とやけくそに叫ぶわたしに、やっぱり永遠とは愛と等価なんだと示すんだ。

 ああ、やっぱり、日本語ネイティブでよかった、愛とIとAIを同じ発音で読める。

 「三体」は人類の全部が書かれている、凡庸なテキスト。二次元に展開された美しい図案。ほかの宇宙、つまりほかの本では、全く違った姿で展開されるだろう。でもすべてはつまるところ同じ物だ。

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