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木平古栗「ポジティブシンキングの末裔」で皮剥かされた

元旦に高尾山に登り、心から健康を祈願し始まった本年。山も登って団子も食った元旦が、今年一番元気だった気がする。2024年に投稿したnote記事のどれを読んでもおわかり頂けるが、絶不調の日々が続いている。

健康守りとして買ったひょうたんが連なった根付けは、我が家の鍵につけてしっかり持ち歩いている。人生のどん底と言うわけでもなく、低空飛行でも細々生きていられてるのは、この800円くらいしたひょうたんのおかげだろうか。
そもそも、実際にひょうたんのおかげでなくても、「〜〜のおかげかも」などと思うために買ったのだ。気が小さい自分への投資だ。


就寝前、我々夫婦はそれぞれベッドに入って読書することが多い。いつも夫が何を読んでいるか気になり、ちらっと見る。今年1月、彼はほぼ毎日同じ本を数週間かけて読んでいた。
1月末か2月頭頃、気がついたら別の本に変わっていた。そしてあの長らく読んでいた本を、「気が向いたら読んでみて」と勧めてきた。

木下古栗・ポジティブシンキングの末裔

木下古栗さんのポジティブシンキングの末裔だ。
元々は2009年11月に初の単行本として出版されていたのだが、長年入手困難になっていた本で、なんと昨年の12月末に青山ブックセンター限定で復刊することになったそうだ。

夫はこれを読む前から「金を払うから素手で殴らせてくれないか?」を読んで、木下古栗さんに一目を置いていた。夫の感覚は割と信頼してしまっているので、私も気になっていた。(「頼むから一発素手で殴らせてくれないか」「お願いだから素手で殴ってもいいか」とか、本当に失礼ながら全くタイトルが覚えられずにいた)

金を払うから〜の時は特に勧めてこなかった夫が、この本は結構強めに勧めてきたのでこれは読んでみるかという気持ちが沸いた。

30編ほどの短編の連なりでできていることと、ところどころライトな下ネタが入っていることから、比較的読みやすそうと踏み、ついに2月中旬に読み始めた。

読む前の見立ての甘さたるや、読了は3月22日。夫よりも長く、1ヶ月以上かかった。(しかも一時中断した)

読書スランプに陥った根源

結論から述べると、この本をきっかけに私は読書のスランプに陥った。しかし、間違いなく通るべくして通ったスランプであり、この本を読まなければ、とある地点でその場足踏みを続けていたことだろう。
そう考えると末恐ろしさがある。

読書、というか読書体験は、読者の体調や状況によって、かなり差が出るものだと思う。
この本が必ずしも万人に同じ作用を齎すかと言えば、そうではない。

仮に、この本に出会ったのが数ヶ月前だったら、「面白かった!響いた!刺さった!」などと偏差値の低そうな高揚をnoteで披露して、普通に日常に戻っていったかもしれない。

自由と不自由さ

そんな中でも、いつ読んでもきっと同じことを思ったかもなということが一つあって、それは、どこまでも自由であるような限りのなさを感じられる小説であるということだ。

しかし、無限の自由には脆さがあり、自由ゆえに、不自由感もふんわりと漂うのである。それもまた面白い。

生きていても同じようなことを度々思う。
自由になりたい!と思っていざ自由になったと思ったら、途端、何をしたらいいか分からなくなる。これは自由ゆえの不自由さだと思う。

一人っ子で、両親との生活に息苦しさを感じて、家出のような勢いで始めた一人暮らしで、まさにその不自由さと直面した。

不自由が自然発生しているというよりは、自由をうまく自由として扱えず、結果として自ら不自由を生んでいる、という感じだろうか。

「5編目まで辛抱して読んでみて」

読み始める前、夫がしきりに言っていた言葉である。前述の通り、この小説は30編以上の短編で成っている。3ページで終わるものから、20ページほどあるものまでさまざまで、全部で324ページある。

これはもう読んでみて欲しいとしか言いようがないのだが、夫の一言はかなり納得がいくものだった。
もちろん4編目までも面白いことは面白いのだが、5編目には「病んだマーライオン」というとんでもない威力を持った短編が待っているのだ。

脱線させてくれない小説

5編目以降、だんだんとペースを掴めてきたか、と思いきや、読むのがちょっと苦しくなるものにぶちあたる。
かと思えば、またもすんなり読めて何なら声出して笑ったりして、ブーストがかかったようにスラスラ読める。
そんなふうに思えば、またまた雲行きが怪しい・・・。

そんな紆余曲折を経て、結局は最後まで読んでしまう。こんなにも脱線をさせてくれない小説は、私が過去読んだ中に思い当たらない。
脱線できない仕組みが緻密に組み込まれている気さえしてくる。これは作者が意図的にやっている気がするのだが、本当のところはわからない。
もしもナチュラルにやってのけているのであれば、相当な神経の持ち主と思う。

こんなにも踊らされたのだから、読者的には意図的にやっていて欲しい気持ちである。

素っ裸にでもされたのだろうか

読書中、体力をかなり消耗していた。そんなはずなのだが、読了した後は清々しいまでにカラッとしていて、もうしばらく読書はいいし、書いていた小説も一旦やめてみよう、という気持ちになった。

人生観までもが変わったような感じ。でもどう変わったか、何とも言葉で言い表すことができない。強いていうならば、義務感とか責任感とか、そういう日常で自然に背負ってしまう何かが急に剥がれ落ちたような。

素っ裸にされたようなまではいかなくとも、確実に甘皮などの膜的存在の皮が一、二枚剥がされた感じ。
急に皮を削がれてどうしたらいいかわからなくなってしまったのだ。

  • 〜しなければならない

  • 〜した方が良い

この二点の思考を基盤に、心より頭に従う生き方を長年してきた。
白黒志向の100か0かの傾向が限りなく強く、そういう観点でしか行動することができなかった。

この本を読んで、そんな義務感とか責任感とか感じる必要がない、ということを肌で感じ取ってしまったのか、そういう思考にストップがかかるようになった。
勿論、そういった自己啓発的なことが書いてあったわけでは一切ないのに、だ。

なぜか本が読めなくなったし、行動もできなくなったし、ちょっと体調不良にも拍車がかかったような気もするんだけど、絶対に私はこの本を読まなければならなかった気がしている。

自分に圧倒的に足りないものを、この本から吸収できた気がするのだ。
完璧主義ですり減って生きる日々に、生まれて初めて自分でストップをかけることができた気もするのである。 

勿論、長年身体に染みついた感覚などは消えない。
だけど、頭の中では今までになかった様々な攻防が繰り広げられるようになった。

やらなきゃいけないことなんてないし、こうでなくちゃいけないなんてことも一切ない。

序盤で書いたひょうたんの根付けは、500円だったかもしれないけど、別に調べて訂正しなくたっていい。みたいなそういうこと。でも、ちょっと不安になっちゃったから、ちゃんと言葉にしておく。今日の私は、そういう人間。

夫に続き、私も買った。
我が家には離婚しない限り2冊ある。

↓気になった方はこちらに詳細があります。


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