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「この子達をいじめたら絶対許さないからな」と言った先生。・・その先の話

東南アジアのとある国では、お金を稼ぐために、本当は英語だか日本語だかがそこまで上手ではないのに、「通訳出来るよ」と言って観光客に話しかけて客にする子達がいる。だがそうやってはったりを繰り返すうちに、観光客から学んだ英語(日本語だったかもしれない)が本当に話せるようになっている。という話を何かの本で読んだ時、「ちゃんと話せないのに相手に失礼だ」とか「全然話せないじゃないかと思われるんじゃないか」とかつい考えてしまいがちな私は、その少年達の発想と行動力にえらく感心したものだ。



私が小学校に入学した時、インターネットなんかもまだ普及していない時代、発達障害なんて言葉や認識が今みたいに浸透していたなかった。担任は私達に言った。
「この子達をいじめたら絶対許さないからな」そう言って先生はK君とS君を紹介した。そう言って先生はK君とS君を紹介した。

K君は、常に怯えているように見える子。話す声も小さく震えている。階段も一人で降りれず、手すりを持ちながら一段一段、誰かに付き添ってもらい見守られながら、恐る恐る降りる。

S君を言葉で表現するのは難しいのだけれど、表情のバリエーションが乏しく、声のトーンも一定。感情が分かりづらい子。
ある日の通学途中、同じ学年の子か上級生かが、S君をからかって質問した。
「S、1+1は?」
するとS君は元気よくこう答えた。
「バスケットボールー」
アクセントは「ボー」の部分に置かれている。凡人の私には発想もない解答だった。

その学校には障害を持つ子達を受け入れる、今でいう特別支援学級があった。特別支援学級とは文部科学省の公式サイトには下記のように説明がある。

小学校、中学校等において以下に示す障害のある児童生徒に対し、障害による学習上又は生活上の困難を克服するために設置される学級。
【対象障害種】
知的障害者、肢体不自由者、病弱者及び身体虚弱者、弱視者、難聴者、言語障害者、自閉症者・情緒障害者

後で母親に聞いた話によると、K君とS君のご両親は、特別支援学級に入れるか、普通教室に入れるか迷ったのだという。そうしたところ、当時の私の担任だったI先生が、自分が看るからといって二人を引き受けたのだという。
当時私は学校のクラス分けはランダムに決められていて、学校側で選別をしているなんて思っていなかったので、「選ぶ」という大人の政策が絡んでいた事実に少しショックを受けた。それと同時にI先生の決断が幼いながらに頼もしく感じた。

その後K君はクラス替え後もその折々の担任や周りの子達にフォローされながら、いじめられることなく無事小学校生活を終えた。K君は階段も一人で降りれるようになり、会話も事情を知らなければ気づかないくらい違和感なく話せるようになった。

S君は学年が上がるにつれ、1+1が2になっただけでなく、並外れた算数の能力を開花させ、「算数博士」というあだ名までつくようになっていた。更に、一度聞いた誕生日は二度と忘れないという特技も身に着けていた。中学校に行ってからはアクティブ男子が多くいるサッカー部に入部した。

卒業の頃の二人は、とても特別支援学級に入れるか迷っているような子には見えなかった。



で、何を言いたいかというと、決めつけは良くない、という事。東南アジアの少年然り、K君やS君然り、ごく少ない見えている部分からだけで想像して決めつけてしまうと、可能性や選択肢が狭まってしまうことがある。見えない多くの部分の中には限りない可能性が潜んでいるのだ。

これはあくまで私の想像であり可能性に過ぎないが、もしあの時二人が特別支援学級に行っていたら、皆と同じように生活を送れるまでにならなかったんじゃないか、なったとしてももっと時間がかかったんじゃないか。

私は医者でも専門家でもその子たちの親でもないし、ましてや当人でもない。二人が何の障害だったのか分からないしどうすべきだったかなんて分からない。特別支援学級に行かせることに対して否定的なわけでもない。
ただ、私が日々行っている小さくて多くの選択作業に、これらの事実は教訓として役立っていると思っている。

当時の担任Ⅰ先生は私の卒業後、別の新学校の教頭になったと母から聞いた。今はもうとっくに定年を迎えているご年齢だと思うが、可能ならば当時の状況と心境を聞いてみたいものだ。

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