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イノベーションを起こせない会社になったら、死ねばいい@トグルという物語/エピソード9


※前回のエピソードはコチラ

傷みを受容し、抱えたまま進むことは全体性への道に通じる

伊藤:私がアンチテーゼとしているのは、官僚化した組織です。手続き主義というか。一つやるにも手続きが必要で、大きな意思決定をやりにくくなることです。これは乱暴な表現かもしれませんが、自分の思いを率直な言葉にするなら、新しいことができなくなる=大企業化する、そういう組織をアンチテーゼとして意識しています。会社が大きくなるというのは組織が官僚化するほうへ、チカラが働きますよね。そうした力学が生まれないように会社を大きくすることには関心も興味もあります。つまりは、チャレンジ精神やイノベーションへの熱量みたいなものを保ちながら組織として会社として、大きくなることができるか。私なりの挑戦です。イノベーションへの思いを失わない組織文化を維持することは難しいでしょうから。

S:現時点で、そのためのアイデアは、ありますか?

伊藤:正直にいって、まだ、わかりません。ただ現時点で明確な思いとしてあるのは「イノベーションが起こらなくなったら会社を潰せばいい」です。イノベーションを起こすことができない組織になったら、トグルのパーパスやミッションも消えます。

S:企業としての存在意義がなくなる?

伊藤:それだけではなく、ビジョンも消えますから「そうなったら会社を閉じればいい」と公言しています。それはつまり「イノベーションを起こすことができない会社になったら、死ね」というメッセージでもあります。

S:会社が死ぬということは、倒産や廃業?

伊藤:そういうメッセージを伝え続けることで、会社が死ぬことを避けたい私たちは結果的に失敗への寛容性が高くなるのではないか、という仮説です。

S:生き残りたいなら、挑戦するしかない。失敗を怖がっている場合ではないと?

伊藤:私のイメージは、トグルが挑戦的なスタイルを貫くことができるような構造を作る、です。さらに踏み込んでいえば、メッセージの核心は別なところにあって。前提を疑え、なんです。

S:どんな前提ですか?

伊藤:「会社は継続的な組織であるべきだ」「存続されるべきだ」という意味のゴーイングコンサーン(Going Concern)という前提、認識です。ずっと続いていくことが、あるべき姿だと。これは世界中が一致しています。十年で消えてしまう会社より四百年続く会社が吉、よしとされる。その常識の逆を私は言っています。それは「目的がなくなるのであれば組織として死ねばいい」と。トグルの場合、その目的はイノベーションです。

S:そう思うのには、伊藤さんのどんな考えがあるんですか?

伊藤:代謝があったほうがいいと思っているんです。皮膚は古くなったら死に、新しくなりますよね。代謝があるじゃないですか。会社も同じで、これは死生観です。人間のような生命を持った存在として会社を捉えるなら、その死生観を持って会社組織とも向き合うほうが自然だと思いませんか。

S:何かの終わりは何かの始まり。死を避けるなと?

伊藤:そうです。たとえば地球全体としては、生き死にがあります。それで、全体としては活動しているわけじゃないですか。誤解を招くような物言いかもしれませんが、私は、役目を終えたら死んでもいいというか、死を否定すべきではないと思っています。そこから生まれるものもありますし。人の死は等しく悲しいですが、死という現象そのものを否定しない死生観を持つことのほうが現実に即しているというか。

S:以前から、そうした死生観を持っていたんですか?

伊藤:いや、違いますね。強烈な体験だったので鮮明に覚えているんですが、コーチングの一環で体験したリトリートがきっかけです。コーチングのワークで一番、私に効いたというか。私に、もっとも影響を与えたのは森でのリトリートでした。

リトリートの語源はラテン語です。その言葉の本来は「後ろに引く」のような意味合いでした。これが転じて現代では、撤退などの表現として使われています。森でのリトリートも、日常から一時的に離れ、その環境で過ごすことの表現の一つです。ビジネスパーソンの日常を戦場に置き換えたとき、リトリートは戦場からの撤退にあたります。加えて、都会に暮らす私たちの日常から、一時的に離れることを目的に、森や自然といった環境が、その舞台に選ばれることも少なくありません。

そこでは多くの場合、案内役のような専門家がリトリートを先導します。彼らがガイドしてくれるのは、自然や森での過ごしかたです。

木を切ったり、それに登ったり、場合によっては川や湖でカヌーをしたり。それらは、休暇やリフレッシュという、わかりやすい体験である場合もあります。そうではなく、参加者にとっての撤退とは何か、という意味や意義を扱い、それを還元できるよう働きかける、自己内省型のリトリートもあります。

話を伊藤さんに戻すと、彼が体験したのは、休暇やリフレッシュという、わかりやすい体験型のそれではなく、自己内省を意識したリトリートであった可能性が高いです。

S:いわゆるツアーガイドみたいな人がいて、その人のもとに何人かの参加者が集まり、それから一人ひとりが森へ入るような?

伊藤:そうです。私が参加したときも、リトリートの参加者が各自、一人で散らばり、一日を森のなかで過ごしました。

S:森のなかのイメージは、たとえばこんな?

伊藤:そうそう。道がない雑木林で、私が参加したリトリートは、そこで瞑想などをして六時間くらいを過ごすワークでした。一人のときは、頭によぎる何かを考えてもいいし、考えずボーっと過ごしてもいい。マイナス十度の雪山のなかで一時間、二時間くらい滞在して、笛の音が聞こえたら集合地点に戻ってくる。戻ったら参加者全員で、各々が考えたことを話す、といった体験もありました。そうした時間で芽生えたインスピレーションを参加者で、互いに共有するんです。私が体験したことのなかで、とくに印象的だったのは、倒れた古木から芽が出ているのを発見したときでした。

倒木からコケやキノキが生えていたら、その木の生死をどう判断するか

伊藤:樹齢100年にもなろうかという木が倒れ、割れていたことがありました。その木はちているように見えて。アリの巣ができたり、コケやキノコが生えたり、新しい植物が生えていたりしていました。倒れ、割れ、死んでいるはずの木なのに、そこから芽が出ているわけですよ。「これを人間の理性では理解、表現できないのではないか」そう感じたんです。生き死にを考えたとき、ちているように見える倒木は果たして生きているのか。それとも死んでいるのか。人間の言葉では表現できません。生きながら死んでいるとも言えるし、死にながら生きているとも言える。合理的なのか、それとも非合理的なのか。当時の自分の世界観では表現できないということに私は気づくわけです。それが次のような気づきになりました。

人間の合理性の上に成り立った”社会の枠組み”
という認識ではなく
もっと高く広い視点から物事を理解しなければ
アプローチしなければ
世の中を変えるような事業を私は
生み出すことができないのではないか

伊藤:合理の価値や意義は、いまも失われることなく存在します。でも自然の森に一人で入って、合理性の限界を私は見た気がしたんです。

S:その死生観は組織にも当てはまる?

伊藤:私の考えでは、そうですね。

S:トグルの目的は、イノベーションを起こすこと。その目的が果たせなくなるなら、倒れた古木となって代謝したほうがよい。ゴーイングコンサーンの前提を疑えと?

伊藤:そういうカルチャーの組織を作る、というチャレンジです。

S:イノベーションを起こすことに、こだわる背景には伊藤さんの、どんな思いがあるんですか? 

伊藤:そういう意味では、リスクや失敗への恐れ、みたいなところの私のアンテナ?センサーは、少し壊れているのだと思っています。

伊藤:壊れた部分を持つ者の生きかたとして、どうやって世のかなにポジティブな影響を与えることができるか。そういう部分が私の役割なのかなと認識しています。

S:倒木の役割、そこから生えるキノコの役割、そうした死生観で自分という存在を捉えているわけですか?

伊藤:私は、役割を分担していると思っています。与えられた命を伊藤嘉盛よしもりは、壊れた部分を持ちながら、あるいは傷を負った者として、地球に何をどうやって還元するか、役に立つのか。そのために私は自分をメタ認知することをかなり意識的にしています。

S:「自分をメタ認知することをかなり意識的にしています」をもう少し解説してください。

伊藤:たとえば、私がコンビニで買い物をするとして――

(つづく/エピソード10へ)

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