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【誤用】深甚の至りという名興文庫相談役の発言を元に、事業で訂正を行う重要性を考える

 1月17日である。名興文庫からのお知らせ「『ボウモアと海』出版停止に関しまして」から、早ふた月が過ぎた。

 『ボウモアと海』の2巻の書影は消え、1巻は作者の方には惜しむらくとなっているかもしれないが、未だAmazonに書影が残ったままである。

 権利者との話は11月15日時点で既に終わっているとのことなので、復刊する気がないのなら、2巻同様早急に出版側による出版停止を行い契約も解除して権利を返した方が作者のためではと老婆心ながら思う。

 さて今日はなかなかに興味深い議論が巻き起こっていたので、それを元に訂正を行うことはなぜ重要なのかを一つ紐解いてみようと思う。長くはなると思うが時間の許す限りお付き合いいただけたら幸甚の至りだ。


 お読みいただいている方は「深甚」という言葉をご存知だろうか。普段の生活ではおおよそ聞きなれない言葉、とも言えるだろうし、ビジネスシーンでちょくちょく聞くという方もおられるかもしれない。
 意味としては、

しん‐じん【深甚】

読み方:しんじん

[名・形動]《古くは「じんじん」とも》意味や気持ちなどが非常に深いこと。また、そのさま。甚深。「—な(の)謝意を表する

引用:Weblio辞典

となっているようで、その多くは「謝意」という単語と共に使われるようだ。主に深い方向へと強調として使われる単語といったところだろう。
 相談役が「『ボウモアと海』出版停止に関しまして」に使用していたことから、記憶に新しい方もいるかと思う。それについて本日彼が以下のポストをした。

 親切な方が返事をつけていた。

 前出の相手には「ほぼ誤用」(※誤用とは言っていない)と言っていたが、たずねる形式のポストの為ついたのであろう、指摘というより教えるのみの引用だ。だがしかし、引用相手には、謎の引用返しが行われていた。
 これ以上は助長となるので引用を避けるが、おおよそは「現代語において至るを凄いだなんて使用しないだろ」「古語よりずっと、今に至るまで凄いと使用された作品もポツポツ見ますよ」という論のぶつかり合いであった。
 至りには厳密にいうと「凄い」という意味は付与されていないようだ、辞書にその文字は見当たらない。しかし「極み」の意味があり、大抵はこれ以上ないほどにといった意味で使われることの多い単語である。これ以上ない、というのはとてつもなく凄いことでもある。このことから大体ふんわりとした意味合いで幸甚の至りなどはすっごく幸せ、と訳している人も多いのだろう、私もそのうちの一人ではある。なので現代において凄いが意味としてないとは言えない。そう考えるのが、この「至り」を使った文言への反応や昨今の情報の蓄積がわかるGoogle検索の結果(深甚の至りでの検索件数は非常に少ない)でも、言えることだろうと思う。
 また、このことについて興味深いポストをしている方がいたので、以下にて引用させていただきたい。



 さて。論のぶつけ合い自体は良いと思う。ただ初手の「確かこの人、○○さんに〜」という引用部分だけは、私にはどうにも不可思議に感ぜられた。相手は言葉の使用について語っている。しかし相談役は相手が誰かにした指摘についてあげていた。事実ならば指摘されても仕方がない部分もあるだろう。しかし、似た案件はあれどもニュアンスがどうにも違っていた。以下に引用する。

 「訴訟」「訴え」「営業妨害」等「なろう」という単語と組み合わせたり単独だったりと探してみたが、これ以上は見つからなかった。リプ先を色々当たりこれがほぼその原文だろうと思うので載せておく。なお相手が異性と思われる方もいるだろうが、相手は男性(ツイキャスのタグにて男性とあり)だった模様。

 そもそも「深甚」とは「(意味や気持ちなどが)非常に深いこと」という意味であり、深甚という単語の中になんらかの意味や気持ち自体は含まれていない。これははなはだふかいと漢字を分解してみても、理解していただけるのではと思う。
 「とても深い気持ちに至った」という自体は、確かにさしておかしくもなく一般的かもしれない。しかしその気持ちはどんな気持ちか?となると別である。反省なのだろうか?憤怒なのだろうか?幸福なのだろうか?必ず何かの単語とセットにしなくては言葉としてなんとも中途半端、というより説明になっていないのではないだろうか。例に出ている幸甚の至りとは、幸甚が「この上ない幸せ」という意味で、「至り」が最高の状態に達することを指しきちんと「幸せな状態」が意味として入っている言葉である。深甚の至りにはこの「状態」がない。これはハッピーセットを「 」セットと言われても、なんのセットかわからないのと同じである。

 なお本人の「深甚に至る」として使っていたとのポストだが、私は古いポストでも2〜3回「深甚の至り」と謝辞として使っている文章を目撃している(今は削除されているようだ)。
 また残念ながら到達するという意味にしたとしても、文脈として深甚が迷子であることに変わりがない。そのことについては以下に詳しく説明していく。

 どの意味や気持ちなどが深甚に至ったのか。それでは冒頭のお知らせから引用してみよう。深甚は「寛大なお言葉やご教示をいただいており、深甚の至りであるとともに大事な教訓にさせていただく所存です。」ここに使われている。
 「寛大なお言葉やご教示をいただいており」とはサントリーへとかかる言葉であり、「深甚の至り」へとはかからない。「大事な教訓にさせていただく」も知財侵害や教示をもらった内容についての言葉であり、「とともに」という繋ぎの言葉で区分けされ連なっている為「深甚の至り」へとはかからない。上下にある文章も段落が変わったり内容が変わったりしているので、彼は下記引用のように思っているようだが、

この単語の連なりだけがどこにも至れていないのである。

 余談のよの字にもならないが、彼は以下のようなことも言っている。

 確かに調べてみると、noteにて彼の『ダークスレイヤーの帰還』という作品へ感想を書き、語句の使用に指摘をする記事が見つかった。

 感想の一文もついでなので紐解いてみよう。以下感想文の数文を引用させていただく。

これも細かいとは思うのだが

「身に余る光栄、深甚の至りです。早速、新たな地に向かおうと存じます」

という一文がある。最初のエピグラフの少し上かな。

これなのだが、「深甚の至り」などという言葉は無い。

https://note.com/fair_willet35/n/nf3674ec635ca

「身に余る光栄、深甚の至りです。」とある。身に余る光栄とは自分への評価が身分以上の名誉、と思ったりへりくだったり謙遜してしまう時に使う言葉である。例えばこの文言に彼の言うように到達するという意味で深甚がかかるとしたら、身分以上の名誉が非常に深く到達しています、というような意味になるだろうか。目的地迷子である。名誉はどこへと行くだろうか、マントルに突き刺さるのかもしれない。
 例としてもっとすっきりと表現するならば「身に余る光栄、恐悦至極に存じます」といった耳馴染みある言葉で十分であろう。どうしても使用したいならば「深甚なる光栄に、この身打ち震えております」で十二分に機能する。

 そもそも。私の記憶が確かならば、小説での使用に言及されるよりも早く、サントリーのボウモアへの知財侵害の際に話題に上ったのが最初である。


 誤用やミスは誰にでも起こり得るだろう。指摘されもするだろう。それ自体なんら悪いものでもない。修正できることはある種の幸運でもある、特に命の関わる現場では、指摘をスルーすれば消える灯火がある。
 文章への指摘は、小説書きの方々においては当たり前に行われる方が健全であろう。言葉への理解にも繋がる。しかしそれに以前起きた事柄を悪し様にくっつけてしまっては、指摘は悪意に変わるとも言えるのではないか。そんなことを考えさせられた。

 こと、事業においてイメージ戦略は要の一つと言っていいだろう。毀損されたイメージはその事業が行うことについてまわり、また、商品を扱う業態においては、消費者の購買意識を遠ざけかねない。大手ではその分母から痛手を避けられるかもしれないが、中小や、スタートアップ、個人事業となるとまた違ってくるのではと個人的に思う次第だ。
 良質な人生をうたい、本を読み読解せよと常々言うような出版社を動かす人物もまた、その言動によって「良質とは何か人生の豊かさとは」と周りから判断される立場にいるものと私は考える。その点から言えば、上記一連の発言などを見るに反発を呼びかねない反応及び言葉の選び方ではないかと思った。
 私が彼の立場だとしたらだが、「ほぼ誤用」と伝えた相手への反応に近しい、素直な言葉、例えば「私実は深甚に至りをこれこれこういった意味に捉えてまして、誤用してたんですよ。今回知ったので次から適切に使っていこうと思います」という風なことを一貫してどの相手にも返す。なぜなら、それを使って初手で馬鹿にする相手は、どこかで私の発言を不快に思ったかもしれず、また、ただの言いがかりのストレス発散相手に選ばれたのかもしれないからだ。その選別をいちいちして対応を変えるというのは、面倒の一言に尽きる。ミスはミスなのだから、修正すれば自分にはプラスでもある。怒りにたてるその腹は、美味しいものでも食べて満たす方が楽しい。


 余談にはなるが、この指摘を受けて名興文庫代表、尼宮乙桜代表がポストをしていた。以下に引用する。

 尼宮氏には申し訳ないが、今回の話は小説の話ではなくビジネス文書における話である。確かに堅洲斗支夜氏のXでの発言が発端ではあるし、彼はポストにも使用していたがその存在は彼の手によって削除がなされている。つまりは現存する文章の中での誤用指摘、その一番の発端は、彼自身で書いたのであろう名興文庫に掲載された文書とも言えるのだ。ここを取り違えては話が見えてこなくなる。わざとでなければやめた方が良い。


 出版社とは、文章を使いそれを元に仕事する会社である。言うなれば文章が商品だ。自社の商品をより魅力的にするには、ブラッシュアップが時に必要だろう。文章への指摘には柔軟であってもなんら悪いものではない。少なくとも私はそう考えるし、文章や言葉、また単語についてのみの議論ならば異論や疑問をつくすのは楽しそうでもあるし、されれば発展していくものもあるだろう。
 またそのような姿勢の出版社ならば、どんな商品、書籍を扱っているのだろうかと興味を引かれるのが人の好奇心なのではと、いち消費者として思った。その為、事例として話題にあげさせていただいた。
※出版社、会社、と書きはしたが現時点では同人サークルである。(このことは尼宮乙桜氏も『特定商取引法による表示ほか、今後の予定について』https://www.naocoshibunko.com/00013-2/にて明言している)

 長々と書き連ね至らぬ点のある文章かとは思うが、ここまでお読みいただいた方には深甚なる謝意を表する。

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