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グラグラ期 その後

こんばんは、こんにちは。toga.shiです。
前回、自分の軸がグラグラしてるって話を書きました。アートセラピーをして、解釈し直して、少し気持ちが落ち着いたかなっていう話でした。
その後の話ですよ。はい。

えーと、問題はなんだったか、というと!
私には最近、仲良くなりたい人がいて、
私はもっと話したいなぁ、居心地いいなぁ、と思っているんですけど、
その人はそんな風には思っていないこともよくわかる。
でも、どうしても気になる。なぜ気になるの?どうするの?

深堀りすると、その人が気になるのも、自分が動けないのも、「人と親密になることが苦手」であるという自分の性質に直面する。それは、その人も共有している性質である。じゃ、どうしたい?その性質に私はどう向き合うの?私は、その苦手さや、不安や、痛みを、感じて、温めて、光を送って、傷をいやしていきたい。それが至福だし、自分のできることだ、と思ったんでした。

で、翌日、しっくりくる光景を、私は経験したのでした。
それはボール遊び。私は障害者施設で働いているんですが、ひょんなことから、3人の利用者さん交えて、私と、その人と、キャッチボールする時間がなぜか生まれたんですね。利用者さんはそれぞれ、障害の特性がバラバラ。会話ができない、体が不自由、落ち着きがない… 同じ場所にいても、一緒にコミュニケーションするという場面はなかったんですね。
でも、キャッチボールはなぜか、できた。もちろん、はずれてコロコロ転がっていくボールを、拾いにいかなくてはいけないキャッチボールでしたが。
でも、そこにいる人たち、皆、笑っていたし、安心している感じがして、やっぱり心地がよかったんですね。
で、気づいたんです。今の私と、その人で作ることができる、理想的な関係は、こういう感じだ、と。ふたりの距離を縮めるとかじゃなくて、コミュニケーションに難しさのある人達と一緒に(私もその人も含めて)、なんとかデコボコしながら関わり合って、楽しい経験をすることだと。
そういう時間、いいな、楽しいな、幸せだなあ って、そこにフォーカスしていこうって思ったのでした。

でも、人間だからグラグラは戻ってきます。
自分のエゴとか欲望が、すごく「さびしいよ、私をみてよ!」って言う。
自分の中にある人間っぽい部分。
瞑想すれば消えていくかもしれないけど、そういう気分にもなれず、
今はそこにもじっくり浸りたいらしい。
私にもそういう感情、まだまだしっかりあるんだよね。うん。
でも、分かってる。誰かに埋めてもらいたい寂しさは、誰にも埋められない。埋められるとしたら、自分しかない。自分が愛の力をどこからもらえるか、っていうと、自分を超えた、大いなる存在とうまくつながって、果てることのない水のように、いつも自分に注がれていることに気づくしかない。
(変な話でごめんなさいね)

もう少し浸ったら、選べるよね。
どちらの感覚にフォーカスしていきたいのかって。
グラグラ期は軸の調整中なのかな。
軸が定まったら、私は、本当は、もっと確信を持って、自信をもって、自分と他者に(わたしとあなたに)見返りのいらない、天からいつも注がれている愛を伝える存在になりたい。「だいじょうぶだよ、だいすきだよ」っていう感覚をいつも伝えられる存在になりたい。

こんなイメージ


 


長い独り言のような、奇妙な文章でした。読んでいただいてありがとうございますー。



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