陰陽論17精神の発生11

繰り返し当たり前の話になりますが、心(意識)はモノではありません。しかし身体というモノがなければ、発生もしません。「運動」というものが、運動するモノ無くして、運動そのものだけで存在していないのと同じです。といって意識を物質の微細な運動の連続としてしまえば、「心(意識)が何か?」について何かわかった気になるかというと、「だからどう?」にしかならないでしょう。運動していない「モノ」は取り出せそうだし、想像しやすい。「運動」は取り出せないし、モノ無くしての運動はありえない、だからモノ中心で考えるのが当たり前だ!そう考えがちです

しかし陰陽思想というのは、片方だけでは成り立たないという考えなのです。存在そのものにも、何らかのエネルギーが必要だからです。「在る」ことが英語でも日本語でも動詞であることは、偶然ではなく、太古の人の感覚が優れていた証だと私は感じます。

モノは気が固まり動かなくなった物であり、モノ以外は広義の気となります。時の長短はあれど、モノはいずれ分解され気に成り果てます。太極図☯はこの陰陽が重なり合い、変化し合う様子を表しています。

私たちは手足を自分で動かしても、他人から動かされても、動いているのを感じます。それらは魂を通り心に伝わっています。この場合、心は魂の運動を、身体の反応として感じる役目をしています。

有名なベンジャミン・リベットの実験を待つまでもなく、私たちの心がイコール自由意志でないことは、思弁的に導き出されます。しかし、それで終わらずに、もう一歩進めてみましょう。

外の現実世界と触れ合っているのは心(意識)です。心は外からの刺激の違いにより、人それぞれのクセのようなものを生み出します。それがフィードバックされ魂も、人それぞれの違いが生まれていきます。この過程も結果も他者から予測されるものではなく、行動、思考の決定は本人に委ねられています。人間に自由意志が無いことと、人間が自由でないことは区別されるべきであると、私は考えています。自分の魂は自分のものでしかないからです。

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