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1年目でできたこととぶっちゃけた心境

2019年の1月21日に日本を出たからちょうど1年経った。協力隊の残りの任期もちょうど1年。この前の中間報告は10分のプレゼンだから成果とファクトベースなシンプルなものだから、今回はその深堀りというか実際の心情を。

振り返ると、ずっと活動の目途が立たないというか、どれか早く成果がでてくれ!と願い続けた1年だったなと思う。苦しかった。

最初の1ヵ月をセントルシアでの研修で使ったので実際任地で活動が始まったのは2月10日くらいから。そこから2か月くらいは環境に慣れるのと情報収集に使ってた。その頃はまだ、見るものすべてが新しくて、まだ高揚感があったから地に足のついてない感があった。旅先での非日常感というのか。セントビンセントでの生活がただの日常になりだすにつれ、徐々に徐々に冷静に現実を受け止めることができるようになったわけだけど。

事前のプランはことごとく失敗した

とにかく協会に金がないことは渡航前からわかっていたから、マンスリーサポーターのような仕組みを作って月額課金モデルを導入して、サポーターとなんらかの交流プログラムを作って、啓発活動と絡めようと思っていたけど、国際送金とUSのサービスがセントビンセントでサポートされてない技術的問題を解決できなかった。これで2か月くらい溶かした。

これが精神的にけっこうしんどかった。自分が思ってる以上にあてにしてたし1番インパクトがデカいと思ってたんだと思う。あと、単純に早い段階で成果だして現地の人たちの信頼を勝ち取りたいと思ってたから、それがパーになったわけだから、最初が肝心なのにスタートでつまづいたと思った。

そのほか、モップの生産性アップが要請書にはあったけど、実際に生産ラインを見てみると、文句のつけようがなかった。改善点は材料のリードタイムの調整くらい。事前に発注しましょうくらいしか言うことなかった。

課題はいくつもあるけれど、行使できる予算を持たないぼくという人間1人ではすぐ解決できそうなことは何もないように思えた。もうすこし丁寧にいうと、どこから手を付けていいかわからなかった。課題が多すぎてどこを触れば成果がデカいのか、すぐ成果だせるのかわからなかった。

金もヒトもモノもないという環境、加えて視覚障害という制約をどう乗り越えて金を稼ぐか、世間にアピールするか、話題を作って新聞に取り上げてもらうかは普通のサラリーマンだったぼくには難度が高いと感じていた。

というか事前に予想できてたから、その対策案での月額課金モデルでもあった。話題になるだろうし、話題になればメディアにも取り上げてもらえるだろうという目論見だった。

5月くらいには、ぼくをここに派遣したのは完全にJICAの人選ミスだと思っていた。だってマーケティングの経験はあるものの、障害者と働いたこともなければ、PRの経験もなかったから。ここで求められていることはマーケティングというよりPR、繊細なコミュニケーションだと思ったから。

なにもやっていないわけではない。むしろぼくなりにいろいろやって、早くどれか成果がでてくれ、少しでも明るい話題をぼくにくれと思っていた。

だから、任地で活動し始めてから4カ月ほどのころの隊員総会の記事を読むとその苦しさがにじみ出ている

結局、出口の見えないこの苦しみは10月頃まで続くことになる。

ペーパーバスケットを作っても褒めてはくれるけど、売れないし、売れないから協会の人も作る意欲がなくなってしまう…という負のサイクルになっていた。

だから目先を変える意味でも新しいクラフトとして

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古新聞で箱を作ってみたりしたけどそれも、似たようなものだった。

Instagramのアカウントの運用状況は悪くはなかったけれど、数字だけでは、実際の反応を知れないので、どのくらいセントビンセントの人たちに刺さっているのか感じ取りにくく、手ごたえはなかった。ぼくの中では2年の活動が終わるときの最終報告の言い訳用のニュアンスが大きかった。

転機はテレビ取材

自分が思っているより、セントビンセントの人たちはFacebookを中毒的に使ってると気づいていたけれど、Facebookページをどうやって伸ばすのかがさっぱりわからなくて、提供できる話題づくりも詰んでたし、とっかかりが…と思っていたとき、テレビ取材のオファーを受けることができた。パーティーで連絡先を交換して、あれこれやりとりしてる中でのオファーだった。

結局そのおかげで、Facebookページのフォロワーも増えたし、反応も見えて、反響が大きいことがわかり、いくらかの寄付金も個人から受けることができた。

活動の基盤ができたと実感

これにより、ようやく積み上げていける場がまずはウェブ上にできたなと思った。これまで、リアルの場でイベントを何も企画しなかったのは、彼らの意欲と資金の問題もあったけれど、ぼくのモチベーションがイベント開催に一切向いてないのが大きかった。

この次々と話題のニュースが目まぐるしく表れては消えていく現代で、苦労してイベントをやったわりに、たいして人も集まらなければ翌日には忘れられてしまうのようなものに価値があるのかと思ってた。

実際いくつかいろんなタイプのイベントをこの国でみたけれど、基本的に身内というか、知り合いだけが集まる感じだったりして、要するに、解決したい課題を認識してる人しか集めれてなくて、ほんとに来てほしい層の人たちまでリーチできてないように見えたから。

砂上の楼閣というか、自転車操業というか、成果を出すには、何かを根付かせるには、忘れられないように次々とイベント開催して、たまたま飛び入りで参加してもらうような、超草の根の消耗戦でしかないように思えた。そして、実際にそれを行おうとすると1発目のイベントの反応の悪さに協会の人たちの意欲はゼロになって2回目開催は永遠に来ないだろうと予測できた。

なぜなら集客できたり、参照できたりアーカイブとして残しておく仕組みがないから。(当時のウェブサイト、SNSアカウントではトラフィックが少なすぎて存在しないも同じだった)

だから、やるとしたら完全にぼくのため。きちんと活動してますよ、がんばってますよとJICAとか日本人にアピールするためにしかなり得ない。マジで意味ない。

そういう状況がテレビ番組をFacebookページで公開することで、変わったように思う。多くの人に見てもらえ、多くの人にリーチできたように思う。

まだ完全とは言えないまでも、徐々に、イベントを開催して、多少集客ミスってもウェブで挽回できるというか、むしろウェブで活動を公開するためのネタ作りとしてのイベントをやってもいいかなと思えるようになってきた。

リアルの場でイベントを開催してFacebookページをフォローしてもらう、みたいな動きもできるようになってきたんじゃないかと思う。

活動の基盤がようやくできた気がする。自分がやることが最終的にここに繋がるかどうかの判断基準ができた。この安心感は良い。

けっこう長くなってしまったから2年目やりたいことはまた明日書く。

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