ダイアログインタビュー ~市井の人~ 内田雅人さん「私が動く理由」5

――内田さんは、そうした「こどものつばさ」の活動だけじゃなく、色んな事をやってきたじゃないですか。震災後ボランティア参加者が宿泊出来るようにするためのテント村を創ったり、仮設住宅でのサロン「眞こころ」を運営する任意団体「やっぺ南相馬」を立ち上げて運営したり…。率直に訊いちゃいますけど、何でそれらの活動をしてきたんですか(笑)?

内田 何でやったかって?何でやったかっというと…何だろうなぁ…。当時消防団の活動をしてきて、まずは救助活動をして、その後昼夜問わず遺体捜索や、がれき撤去作業なんかをやってきて…それが落ち着いてきた丁度ゴールデンウィーク前に、ボランティア受け入れのためのベースを創ろうという事になって、たまたまロータリークラブから寄贈されたテントを消防団が持っていたからそれを借りてきて創ったわけ。そういった様々な活動をやっていくうちに、次は何をやろうかと考えた。その頃、仮設住宅への入居が順に始まって、そこでのコミュニティー作りの支援をしようという発想になったわけだね。

――じゃあボランティアのベースづくりは、仮設住宅のコミュニティー支援のきっかけにはなったわけですか。支援の対象者が、ボランティアから仮設住宅にお住まいの方へ、そして子どもたちへという具合に推移していったと思うんですが?

内田 特にそれは意識してなかったね。ボランティアベースは、運営自体は俺では無いからね。外部の支援者からそんな場所を創りたいという話が持ち込まれて、当時俺は地元の消防団の長として、行政区代表を通じて「こんな話があるんだけど」と提案を受けた側だから。その話を受けて、役所と色々調整はしたけどね。例えば、ボランティアベースの設置場所として行政区の公会堂(集会所)を使うと、電気や水道料金が行政区に発生するので、消防団の屯所にベースを設置しようとなり…そうすれば電気と水道の使用量は、行政側の負担になるので、その調整だとか。たまたまロータリークラブ寄贈のシェルターテントが上手く使われないままになっていたので、それを譲り受けてね。そういう中で出来たボランティアベースだったんで、ボランティア参加者の世話をしたという気は無かった(笑)。ただ、「ゴールデンウィークまでにボランティアを受け入れられるベースを創ろう」という想いはあったよ。だから最初は小さな規模から始めて、後に規模を大きくしていったわけなんだけどね。

――ボランティアにとって、あの場所がまた雰囲気の良い場所になって!中には変な人も来たけど(笑)。

内田 俺が嬉しいのは、川子(ボランティアベースは、南相馬市鹿島区の川子という場所にあった)にいたボランティアの方が南相馬に移住してる事なんだよね。戸田さんもそうだし(私も最初はこのボランティアベースに滞在していた)、他にも結構いるじゃない。そんな川子出身者(笑)の人たちの名前を聞くたびに何か嬉しい(笑)。

■ そんな風に言ってもらえる事自体、私にとって物凄く嬉しい事だ。川子のボランティアベースは、ボランティアとして南相馬を訪れた「よそ者」と地元の人々がファーストコンタクトを取るには最適な場所になっていた。先にも書いた通り、この地域の人々はとても義理堅く面倒見が良い。このボランティアベースは、夜な夜な地元の人が酒と食糧を持ってきてくれ、酒を酌み交わしながらの交流の場になっていたのだ。そんな場だったボランティアベースは、かくいう私にとっても大変思い入れの深い場所だ。

――川子っていう場所も良かったんでしょうね。夜になると星がきれいに見えて…南相馬の魅力に触れられる場だったんですよ。まぁテントの居心地そのものも良かったんだけど(笑)。その「良い場」の空気を、「やっぺ南相馬」で仮設のサロンの持ち込んだように見えたんです。

内田 サロンに関しては、当時付き合ってた「人」のおかげだよね。支援に入ってきてくれてた人たちとの話の中で、次に何をやるかという事になった時、仮設でコミュニティーカフェをやろうと決めた。俺が訊かれたらいつもこう答えるんだけど、東日本大震災では阪神淡路大震災の教訓を踏まえて、孤独死を出さないために旧居住区ごとに仮設に入居させるとは言っていたんだけど、そうは言っても、昨日までのお隣さんがまた隣に住むわけじゃないし、環境は全く変わるからね。そんなわけで、「失われかけたコミュニティーの再構築」を謳ってサロンの事業を始めたの。で、たまたま寺内第一仮設(サロン「眞こころ」が最初にオープンした仮設)には、鹿島区と原町区と小高区の三区からの被災者が合同で居住する仮設だったんだけど(寺内第一仮設は早い時期にオープンした仮設で、被災者のうち早期に入居が必要な高齢者や乳幼児を含む世帯が優先的に入居したため、三つの区の被災者が合同で居住する仮設となった)、鹿島区で津波被害に遭った真野地区や烏崎地区などの人たちが入居している仮設という事で、初めに寺内第一にサロンをオープンしたの。ちっちゃい時からお世話になってきた、親やじいちゃんばあちゃんみたいな人が入居してるし。だからあそこ(寺内第一)から始めたわけ。

――まずは身近な人がいるところから始めたというわけですね。

内田 自分の地元って事でね。

――そうなると…ちょっとこじつけっぽくなるけど、南相馬の市外をあちこち住んで「外の土地を知ってる」からこそ、地元という感覚だったんですかね?

内田 う~ん…それは俺の中ではあまり関係ないかな。分からないなぁ。その当時は自分が旗振り役となって活動していくだなんて思ってなかったし、ただ単に無我夢中だったね。そんなに自分が地元愛を語ってたわけではなかったし…分からないね(笑)。

――その話を聞くまでは、もっと地元愛的な想いから活動してるのかと思ってましたけど、それとも違う、もっと自然な気持ちから活動してるんだなと思いましたね。そこって何なんだろうな。

内田 分からない(笑)。自然にやってたんだから、自然な想いだったんだろうね(笑)。

――「分からない」という答えは面白いですね(笑)。これからもこうした活動は続けていくんですか?

内田 やっぱり仮設住宅があるうちは、ああいった交流できる場所は残していくつもりだし、最後までやるつもり。子どもの事業にしても、「人が減った」とか「支援団体が減った」とか言っても、支援するといってくれてる団体がある限りは、地元でも骨を折って出来るだけの事をしないと失礼だし、何より子どもたちのためだしね。未来を背負う子どもたちのためだもの。長い目で続けていくべき事かも知れないね。

――なるほど…今日の話みたいに「どうしてやってるのか分からないけどやってる」と言われたほうが、何だか腑に落ちるなぁ(笑)。今日は長時間にわたり有難うございました。

■ そう…理由を体系づけて語ろうとすることは、時に無意味なのだ。内田さんとの話では、その事が浮き彫りになったように思う。その時その時で体が動く…まさにそんな感じなのだろう。
先ほど、「この地域の人は義理堅く面倒見が良い」と書いたが、内田さんはその代表格なのだ。インタビューの中で、「自分は○○だと思ったから××をやった」という主張のようなものはあまり聞かれず、もっと感覚的な「流れで~」や「周囲の影響で~」というニュアンスの言葉を聞く事のほうが多かった。思うにその事も、義理堅さや面倒見の良さの表れなのではないだろうか。「こじつけの理由を考える必要がない」というか「困っている人がいるからやる」という意味で。
インタビュー中にも話しているが、もっと「地元愛」を打ち出した話になるのかなと思ってたのだが、おそらく内田さんの中では、地元愛は打ち出す必要がなく、当たり前に行動のベースにあるものなのだろう。そしてそれは内田さんの場合、人とのつながりの中で色濃く表れてくるものなのだ。
 このインタビューに際し、そんな感想を抱いた。

~了~

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