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月の呼び名に見る、地域を見直す視点

この記事は2022年11月14日に書いているのだが、先週11月八日の夜には、皆既月食があった。今回は皆既月食中に天王星食が起こるという、大変レアな現象だとのことで、大々的にテレビ等でも取り上げられ、観測会なども全国あちこちで行われていた。
かくいう私も、これを観測するために、山の上の見晴ら出掛けていった。出掛けていった。

しかし考えてみて欲しい。月は曇っているときと新月の日以外は、毎日みられるものだ。特別な現象の時や中秋の名月の時などに見上げる気持ちはよく分かるのだが、それ以外の日に月が話題に登る機会はあまり無い。何やら勿体ない話では無いか。

というわけで改めて、ほんの触りだけではあるが、月に着目してみようと思う。


月の呼び名

月とは?


月とはもちろん、地球の周りを回る衛星のことだ。地球、月、太陽の位置関係は、地球から見て日々変わるので、地上からの月の見え方も毎日違っている。満ちて見えたり欠けて見えたりするわけだ。
この満ち欠けは、約29.5日の周期で起こっている。昔の人はこれを「概ね30日」として、ひと月30日の暦を作った。これを「太陰暦」という。
日本で「旧暦」というと、この太陰暦に太陽の位置を考慮した「太陰太陽暦」のことだ。つまり旧暦において、15日の月は大体の場合満月で、1日の月は大体新月となる。

※ここで豆知識。ちょっとややこしいのだが、旧暦1日の月は月齢で言うと「月齢0日」となり、旧暦15日の月の月齢は「月齢14日」となる。数え始めが0か1かの違いで、便宜的に月齢と旧暦の日にちは1つずれている(覚えといてね)。

色々な呼び方

月にはこの「○日の月」という呼び方以外に、色々な別名がある。
「三日月」「上弦の月」といった具合に。主な呼び方を軽く羅列すると
「新月」
「繊月」
「三日月」
「上弦の月」
「十日夜の月」
「十三夜の月」
「満月」
「十六夜(いざよい)」
「立待月」
「居待月」
「寝待月」
「更待月」
「下弦の月」
「有明月」
「三十日月(みそかづき)」
他にも月は、様々な呼び名で呼ばれている。

新月

月齢0日(旧暦1日)の月。太陽と月が同じ方向に見えるので、地球から月の姿は見えない。「朔」とも呼ばれる。毎月1日を「朔日」というのは、このことに由来している。

繊月

月齢1日(旧暦2日)ころの月。夕方日没直後に、西の空に低く出ている。とてもほっそりとしか見えないので、とても見えづらい。

三日月

月齢2日(旧暦3日)ころの月。3日の月なので「三日月」という。それ以外にも「若月(わかづき)」「眉月」など、色々な呼び方で呼ばれている。

上弦の月

月齢7日(旧暦8日)ころの月。日没時に南の空に見える(北半球の場合)、半円に光る月。

十日夜の月

月齢9日(旧暦10日)ころの月。旧暦10月10日には「十日夜(とおかんや)」という行事が行われている。

十三夜の月

月齢12日(旧暦13日)ころの月。旧暦9月13日の月は、「中秋の名月」に次いで美しいと言われ、月見の習慣がある。この時期は栗の季節でもあり、この日の月は「栗名月」とも呼ぶ。

満月

月齢14日(旧暦15日)ころの月。月の満ち欠けが一番満ち、日没のころに東から登ってくる。

十六夜(いざよい)

月齢15日(旧暦16日)の月。満月より遅い時間に出てくるので、ためらう様子を表す「いざよう」という言葉が充てられた。

立待月

月齢16日(旧暦17日)ころの月。満月を過ぎ、昇ってくるのを「今か今かと立って待つ」月とされている。

立待月

居待月

月齢17日(旧暦18日)ころの月。月が昇ってくるのを、家の中で「座って待つ」月ということ、でこう呼ばれている。

居待月

寝待月

月齢18日(旧暦19日)ころの月。昇ってくるのを「寝ながら待つ」月ということで、こう呼ばれている

寝待月

更待月

月齢19日(旧暦20日)ころの月。夜が更けてくるころに昇ってくることから、こう呼ばれている。

更待月

下弦の月

月齢22日(旧暦23日)ころの月。真夜中ころに昇り始め、日の出のころに真南(北半球の場合)にやってくる。上弦の月とは反対の面が光る。「二十三夜月」とも呼ばれる。

有明月

月齢25日(旧暦26日)ころの月。夜明けのころに昇るので、このように呼ばれる。満月以降の月を全て「有明月」と呼ぶ場合もある。

月にはこのように、同じ月でありながら様々な呼び名がある。見かけの形は違えど、全て同じ月だ。そして昔の人は、日々見え方が変わる月を様々な名前で呼び、愛でていたのだろう。

このように、形も見える時間も日々変化しつついつもそこにある月を、見え方ごとに美点を見いだしつつ眺めていたのだろう。暦を知る術としてだけでは無く。

視点の違い

「ハレ」と「ケ」

「中秋の名月」や「スーパームーン」「月食」を愛でることと、日々の月に美称をつけて仰ぎ見ることには、違った意味が有るのでは無いか。
「中秋の名月」や「月食」などは、天体ショーという言葉が表すとおり、日常では無く特別な「イベント」なのだろう。いわゆる「ハレ」である。一方、日々月を見ることは特別なことでは無く、暦を知るためや「あぁ綺麗だな」と、日常の中の風景、いわゆる「ケ」だと思う。もちろん「ハレ」と「ケ」は完全に分けて捉える概念では無く、この2つは多分にオーバーラップしている。毎日見る月の中にも「ハレ」の要素はあるからね。月を見上げるという行為そのものに「ハレ」の要素があると思うし。

これと似たようなことは、様々なところで見ることが出来る。

街を盛り上げる活動における「ハレ」と「ケ」

私は福島県南相馬市に住み、待を盛り上げる活動の一環として「もとまち朝市」という小さなマルシェを開いている。地元の農家さんが自家栽培の野菜を持ち寄り、軽トラの荷台で販売するという、いわゆる「軽トラ市」だ。最近はそこにフリマの出店者も募り、小規模ながらも毎月賑々しく開催している。そうした活動をフィルターとして見えてきたことは、待における「ハレ」と「ケ」の魅力だ。

街を盛り上げる「ハレ」とは、そのものズバリ「お祭り」や「イベント」を開いて「非日常の楽しさ」を演出したり、移住促進・企業誘致を行って「まちにないあらたなもの」を呼び込んだりといったことが当てはまると思われる(他にもあるかも知れない)。
一方、街を盛り上げる「ケ」には、普通に暮らしているとなかなか気づかない。なぜなら、そこに住む人とその暮らしこそが、待ちを盛り上げる「ケ」なのだから。

もとまち朝市は単なる買物の場であり、お祭りでは無い。マルシェ形式で開くことで、多少のイベントっぽさはあるものの、していることは野菜や雑貨の買物で、日常の買物そのもの。いわゆる「ケ」の場だ。しかしそこでは、出店者と買い物客の間で交わされる絶妙なやり取りや、買い物客同士の立ち話、時には井戸端会議が行われている。

「そうか!このやり取りそのものがコンテンツなのだ!朝市はこのコンテンツを楽しむステージとして機能しているのだ!」
「むしろ、街の皆さん一人一人がコンテンツじゃ無いか!」
もとまち朝市を開くことで、このことに気づくのである。

どっちも大事

街を盛り上げる「ハレ」と「ケ」は、どちらの大変重要なことだ。地方は今、長年続いた人口や資本の流出によって「ハレ」も「ケ」も失いつつある。ならば「ハレ」の目新しさを持って注目を集め、地に足の付いた「ケ」の力を以て、注目した人との関わりを強めていく。この2つを両輪としてリンクさせることが大事なのだ。
「ハレ」の場を作ることは、お金も人手も技術も必要だ。行政や民間、個人が連携して、祭やイベント、誘致策などを作っていく必要があるだろう。
「ケ」の場を作ることは、実はそれほど難しいことでは無い。自分の身の回りにある「『ケ』のコンテンツ」に注目すれば良い。そこに注目すれば、誰かが何かを始めたくなるので、そこから始めれば良い。シビックプライドが失われている(日本の地方には、シビックプライドを無くした地域が多い気がする)地域なら、これを継続することで、シビックプライドを再発見することが出来るだろう。

日常を「見上げる」

このことは、あらゆる物事に言えることなのかも知れない。自分のすぐ近くの魅力・・・・・・つまり「ケ」の魅力は、見落としがちなものだ。しかしこの「ケ」の魅力に気付き、もう一方の「ハレ」と結びつけることが出来れば、身の回りの色々なものを再生出来るかも知れない。壊れてしまった友人関係や、魅力を失って見える職場、冷え込んでしまった恋愛感情など(笑)、輝きを取り戻せそうなものはたくさんありそうだ。
私は、南相馬市の魅力に惹かれ、移り住んだ人間だ。この街で見いだすことが出来た「ケ」の素晴らしさを以て、これからもここで楽しく過ごしていきたい。

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