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お悩み相談DJ・①


【ちょっと雑記】


 毎日同じ景色ばかりを見ていると、どうにかして社会と繋がっている実感を確保しようと、ついぼんやりとした思考状態の中から無理矢理に”自分の意見”っぽいものを見つけ出さないといけないような気がしてしまって、どうもダメだな。と、過集中とチルを繰り返しながら、自分自身にやんわりと注意喚起するこの頃。
人との直接的なつながりや、それに伴う雑談、はたまた社会性を取り繕うことを必要としなくなって、「なんだか最近何をしてもぼんやりしてしまう」という話を目にすることが多い。かくいう私も前述の通りぼんやりしっぱなしで、なるほどあんまり好きじゃない社会にだってある程度擦り切れることで自分という生き物の血の色を知っていたのね。と、嫌なことや辛いことの存在意義を実感する。

 インターネットを覗くと今日も今日とて荒れ模様。その様相を見ているとまた何か言いたくもなるけれど、先週思ったよりもたくさんの方に記事が読まれて良くも悪くも肝を冷やしてしまったので、しばらくはもっと個人的な喜びや悩みの話をしよう。と軽く誓った。    

自分というものは、本当に嫌にはなってしまわないくらいの密度、頻度で、たまに君にも見せてあげるくらいがきっといい。
全部を受け止められる人なんて、いたとしたらそれは運命の人だろうし、運命の人なら自分の全部を無理矢理受け止めてもらおうなんて乱暴なことを思わないで、もっと大事にしたいわけで。結果として、なるべく誰にでも優しくしたい。(私に危害を加えようとする人以外は……)
ということで、気分を変えて今回はinstagramで質問を募集してみました。なるべくたくさん答えてみようとおもいます。様々な社会問題、その中で暮らす人々の抱える問題、言及したくなること、何かしてやりたいと思うことはいくらでもあるけれど、それよりももっと手前で、わたしとあなたは今ここからすぐにでもできる、ささやかなコミュニケーションをとりたい。そんな思いでいます。

 お悩み相談というと偉そうに聞こえるかもしれないし、そもそもわたしは人様のお悩みに答えられるほど立派な人間じゃない、というのは3年前に映画の紹介とお悩み相談の連載「悩みをひらく、映画と、言葉と」(KAI-YOU.net)を始めるときに散々考えたことなのですが、それには一つの、自分を納得させるための答えをすでに出していて。圧倒的にどんな悩みも解決できる人などいるはずも無く、それでもどうしてひとはひとに相談を持ちかけるかというと、サンプルを集めること自体に小さくて大きな、ちゃんとした意味があるからなのではないかしら。わたしがよく言う言葉なのだけれど、強い、とか弱い、という価値観は幻想でしかなく、それらは視点によって……「どこから、どう見るか」によって変動せざるを得ないものなのだと思うんです。そうなると、ある界隈で「強い」とされるものはその対極である「弱い」を人を、逆に「弱い」とされるものは「強い」人を、より知ろうとする、想像している、疑似体験しようとしていることに価値があるのではないかと思うのです。「強きを知る弱い者が、弱きを知る強いものが、それぞれ尊い」ということだろうな、と、それがわたしが生きてきた中で得た「強さ」や「弱さ」への解釈でした。

 なので、未熟な人間も、成熟した人間も、自分と似ている気がする人も、別の世界に生きているような人も、相談をしたり、逆に相談を聞いてみたりし合うことに価値があるような気がするのです。
 わたしは必ずあなたのことをうまく想像できる自信も、役に立つ回答をする自信もないけれど、世界中におかしくなりそうなほどたくさんいる人間の、さらに今までの歴史上に残る人々の思想を合わせるとさらにとんでもない数のうちの、一種類を覗くだけ、と思って読んでくれたらいいのかな、と思っています。
 哲学や思想のもっと手前に、個人個人の持つ考え方のクセみたいなものがあって、その違いを楽しんだり、それに疑問を持ったり、また共感したりすることによって、あなたがあなたの形を知ることができるのなら、それ自体が財産になり得るのだと信じています。


●文学や音楽に気持ちを代弁してもらってばかりで、自分は人の言葉を借りなければ自分の気持ちを表現できないのかあ、ってやりきれない気持ちになります。

 文学や音楽が自分の気持ちを代弁してくれている、と感じること自体が大前提幸福なことだなと、このお話を聞いていて思いました。この世界のどこにも、自分と同じ気持ちが歌われている歌や書かれているお話がないのだとしたら、それは、自分独自の言語を持つことよりもきっとずっと寂しくてやりきれないことかもしれないからです。
 ひとは元来孤独に生を受けるものだと信じていますが、その先ではひとりひとり別々の、多様な生き方をたどっていきます。そのうちで、孤独を受け入れるひと、孤独を悪いものだとして苛まれ続けるひと、一人だなあと思う気持ちを誤魔化し続けるひと、そして心を許せる人と出会ってひと時でも「孤独でない」状態を知るひと、本当に様々ですが、孤独である人と、孤独でなくなってしまった人、そのどちらともに気がつかない人、それぞれ見える景色が異なります。どちらの方がいいということはなく、そこにいる時にしか見えない景色があるのだということがただ大事にするべきことなのだと、わたしは思っています。

 少し話がずれてしまいましたが、人にはそれぞれ得意と不得意があります。努力で補える部分もありますが、もっと途方もない、根本的なその人自身の性質というものもちゃんとあると思っています。(と、宇多田ヒカルという圧倒的に透明な天才の音楽を部屋中に流しながら、一層そのことを意識させられながら、これを書いています。)感情を言葉にすることが得意な人もいれば、努力をしても「できない」と感じる人もいます。それでも、たとえばあなたが言語化を得意としていなく、自分自身から生み出されたオリジナルな言葉で感情表現をすることがかなわなかったとしても、あなたが感じたその感情は、なかったことにはなりません。もしも誰かの言葉を借りて表現するのだとしても、それをしようと思ったきっかけである、その感情自体は、紛れもなくあなた自身のものです。余計なお世話かもしれませんが、その事実はちゃんと、借り物として蔑ろにすることなく、抱きしめていて欲しいのです。

 そもそもが、人類が言葉を持ってからの歴史はもう追いつけないほどに長く、その中で数え切れない程の嘘と真実、平易と複雑、ロジカルとエモーショナル、そのほかあらゆる物事が言葉によって表現されてきました。今現在まるで「その人独自の言葉」であるかのように生み出され続ける文学や詞も、それ以前に発表されたなんらかの創作物の影響を全く受けていないとは言い切れませんし、まるで自分から生まれ出てきた言葉についても、同時多発的に他の誰かも同じことを言っているなんていうことはざらです。本当に、正真正銘のオリジナルってどこにあるんだろう?と考えると、それはただ一つの言葉、ただ一つの表現のみではありえなく、幾つもの表現を重ねていった上で、俯瞰して見たときの全体の色合いとか、空気感とか、選び方のクセだとか、そういうものにあなたのオリジナルというものが現れるような気がするのです。

 なので、あなたが自己表現を、自分から生まれるものによって成し遂げたいと思う人なのであれば、まずは自分の好きと感じるもの、そうでもないと感じるもの、共感するもの、しないもの……自分の輪郭を象ってくれるような表現になるべくたくさん出会うことがやっぱり大事なのかなと思います。自分の思いを誰かがもう既に語ってくれていたのなら、その人は、ライバルではなく、友人なのだと思います。(出会ったことがなくても、です。)そして、それがもしも悔しいのであれば、その気持ちを言い換えるやり方を探してみるのも面白いかもしれません。
だけど本当は、誰だって息を吐くように自分オリジナルの言葉を出せるようになる必要など、別にないのだと思っています。私にはなるべく平易な表現を使おうという志があります。それは、特異な言い方をすること自体にあまり意味を見出していないからです。

本当にあなたに、あなた自身の言葉が必要になるときは、世界中のどこを見渡してもあなたと同じ思いを抱いている人の言葉が見つからないときです。
生きていればきっとその瞬間が来ます。その時に、改めて、どうか誰にも邪魔をされずに、その思いを言葉に翻訳しようと試みて欲しいです。短くても長くても、いびつでもシンプルでも、それが借り物ではないあなた自身の言葉になるのだと思います。



●20も30も歳上の人が好きで魅力を感じます。でも友達はわかってくれません。隠すべきでしょうか。

 年上の人に魅力を感じるの、とってもよくわかります。20歳や30歳の差って、自分たちが若い時だと途方もなく離れているように感じるけれど、実際もっと大人になったら、些細なことだと思えるようになっていくのだと思います。50歳と70歳のカップルがいたってそこまで疑問に思わないように。
歳を重ねる事を、年齢の持つ良い側面を見つける過程にしていきたい。というのが持論です。 

 友達がわかってくれないのもそれはそれで一つの意見だけれど、恋愛においてほど、他人の一意見が邪魔になることもありません。私は何をするにしても直感を大事にしたいところがあるにも関わらず、友人の些細な発言一つも気になって価値観を揺るがされてしまうタイプだったので、自分が本当はどうするべきなのかを探ることがいつだってかなり困難でした。友達の意見は偉大で、そして、だからこそ自分自身の直感や素直な思いよりも優先するべきではないのだと今では思っています。

その恋や思慕が、あなたの心にとってどのくらい大切にするべきものなのかということは、あなたの心以外誰も知りません。あなたの心の中にあるもののことを誤解なく見つめられるのはあなたしかいないので、どうしたって他人の意見は他人の意見にしかなり得ませんし、ここまで書いて気がつきましたが、そもそもあなたは「隠すべきでしょうか」と訊いているので、その好みを失くしたり誤魔化したりすることは望んでいないということでしたね。ここまでは、聞き流してくれて構いません。

 そもそも誰かに魅力を感じること、特別な思いを抱くことは、その人の心だけの持ち物で、秘密にするのもしないのも限りなく自由です。私の好きなやり方ですが、大事なものほど、誰にも教えない。という策を取るのも大いに素晴らしいかと思います。つい、誰かに話さないと感情がなかったことにされちゃうような焦りが付きまとう現代日本ですが、誰にも見せないからこそ誰にも裁かれない、という思いのあり方があってもいいのではないかと思うのです。というか、誰かに話して否定されて不安になるのはあまり生産的ではないので、どうせ人に話したくなるくらいはっきりとわかっている思いならば、一人で勝手に大事にしてしまいましょう。素敵な未来が待っていますように。


●STAYHOMEで飲酒量が増えました。このままアル中にならないためにはどうすればいいですか?

 依存症って、何か一つのことに自分の癒しや息抜きや快楽を全部預けてしまうようなことだと思っていて、それはどうしたって健康でない状態に他ならないんですよね。
 ストレスも多く、誘惑も多い世界に生きているので、自分の心の面倒を、誰かや何かにみてもらおうとすること自体はありふれた行為と言えますが、その面倒を見てもらおうとする相手がたったひとつでは、安全な策とは言えません。そのたったひとつが断たれたとき、危険な状態になる可能性すらあります。
 自粛でアル中になる人、少なくないと聞いています。それに対してできることはやっぱり、依存先を増やす努力をすることなのではないかと思います。
 あなたがお酒に何を求めているのか(暇つぶし?癒し?睡眠導入?意識の撹乱?味?…etc.)をふわっと考えてみて、お酒以外にその役割ができそうな娯楽を探してみる。他の飲み物や食べ物に凝るのでもいいし、テレビや配信を掘ってみるのもいいし、料理や筋トレなど継続できる趣味を探すのでもいいし、もちろんお酒のまま、よりこだわって選んだお酒を手作りのおつまみとともにほんの少しずつ楽しむとか、量を減らせる方向にシフトチェンジするのも楽しそうです。なんにせよ、ただでさえ人間として大きな我慢を長期間強いられている現在なので、何かを変えるにも我慢するというやり方ではなく、楽しんでやれることを探す方がいいと思います。十分我慢しているのですから。


ちょっと一つ一つの回答が長すぎるので、もう少しライトにしつつ、以下に続きます。

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