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青春は遅れてやってくる:明け方の若者たち

私はまだ20代前半の人間なのですが、
「私の青春時代はまだ当分来ないのではないのか?」
と最近思ったりしています。
これは決して二十数年生きてきて未だにモテ期が来ていないからでもなく、
いつか見た夢が叶っていないからでもなく。

当たり前な事ですが、私にも中学・高校時代がありました。
以前の記事にも書きましたが、部活動には精を出していましたし、それなりに片思いも両想いも体験しましたし、
期の置けない仲間とバカ騒ぎをすることもありました。

The青春な学生生活。

ただ、こういった経験の中に物足りなさを感じている自分も居たのが確かな事でして・・・。
思っていたより背が伸びない。
部活では思うような結果が出ない。
人はもっと簡単に自分を好きになってくれると想定していた。
騒いでも騒いでも日々のうっ憤は晴れない。

高校時代、卒業制作で短歌を書いたのですが、その時に私が詠んだ歌が

モテてやる 高校ではと言っていた
今一度言おう 大学ではと

我ながらそこそこに巧い作品だと思います。

そんなわけで、楽しかったのは間違いないのですが、
同時に「これじゃない」感を常に抱いていた私も存在しました。
なんなら「これじゃない」感の方が若気の快楽よりもずっと上回っていたはずです。
今になってこそ「あんなことで自分は迷っていたのか」と笑い話にできるようになりましたが、当時の悩みはもちろん真剣で、
どれだけ食べて寝ても大きくならない体を恨みましたし、
部活で伸び悩んだ時期は何度も目の前が暗くなりましたし、
女の子にフラれた時は自分を映す鏡を片っ端から割ってやろうと本気で思いましたし・・・。
憧れた未来から乖離する現在を見て青春だと思う私はあの場に居ませんでした。

青春時代を生きている私は青春していなかった。
これもまた確固たる事実なのです。

明け方の若者たち

カツセマサヒコさん著の小説「明け方の若者たち」を拝読したのはごく最近の事でした。
大学院の授業もひと段落付き、久しぶりに趣味で行う読書を楽しむことができる。
そうして新しい本を数冊新調した内の一冊だったのですが、この本が兎に角面白かったので久しぶりの投稿で紹介したいと思ったわけでして。

あらすじとしては、一人の若者が就活が終わって恋をして、社会人として働く中で理想と現実のギャップに喘ぐという至極単純なストーリー。
なのですが、ところどころに挟まれる意外な展開や語りの妙技によって重厚さも併せ持つ読み応え抜群な一冊となっています。

この物語を読むうえでのポイントがいくつかあるわけですが、時制と固有名詞が特に重要なミソなのではないかと私は思っています。

まず時制についてですが、この小説は複数の章から構成されています。
それぞれの章の冒頭は過去形の語りで始まります。
そして各章の冒頭以外は冒頭で語られた過去を視点とする進行形の語りでストーリーが綴られていき、
全ての章を通して主人公が就職活動を終えた段階から社会人になって数年経つまでの時の経過を描きます。
つまりこの話にはそれぞれの『今』を生きている主人公と、その『今』を生きてきた自分を眺める主人公という二人の視点で描かれているのです。

それから固有名詞について。
この物語の主人公とその想い人が固有名詞で呼ばれることはありません。
つまり二人は常に代名詞を持ってストーリーに登場するのです。
それ以外の登場人物は固有名詞、つまり自身につけられた名前を持って登場するのですが、この二人だけは常に名無しの人間なのです。
これに考えられる狙いは一つです。
おそらく著者のカツセさんはこの物語を『私たち』の話しとして書いているのです。
名前の無い主人公に私たちを投影できるように。
空白の彼女に自身の思い出を当てはめることができるように。

つまり『明け方の若者たち』は現在と過去を行き来する私たち読者の物語なのです。

この小説には「こんなハズじゃなかった」という言葉が幾度も出てきます。
何かクリエイティブな事をしたい。自分の思想が社会を変える。そんなことがしたいと漠然な意気込みで印刷会社に入社した新卒一年目。
しかし配属されたのは総務部というクリエイティブな仕事にはかすりもしない部署だった。
仕事でもミスが多く社内での部署内での評判も決して良くはない。
それでも転職を希望するにしても、自分には長所が見当たらない。
イチローでも本田圭佑でもない。
大きな野望を持つにはちっぽけすぎることを社会に出て痛感した自分。
「こんなハズじゃなかった。」

恋愛でも大きな傷を負います。
飲み会で一目ぼれした女性。
一度のデートで男女の仲になり、半同棲も経験し、色々な場所に出かけたり、何度も体を重ねたり。
それでもある日からパタリと連絡が来なくなり。
分かれを告げられる覚悟をしようと決心しても、そう簡単に肚は座らない。

希望が叶わずギクシャクとした足取りで今を生きる二十代の若者。
時には自身の不出来を他人のせいにし、もはや他人のせいにできない時は自暴自棄になる。
満たされることのない彼らの平凡。
しかし物語の終盤でこのような言葉が紡がれます。

「でも、二十三、四歳あたりって、今おもえば、人生のマジックアワーだったとおもうのよね」
当時だって仕事はきつくて、思いどおりにいかなくて、悩みだっていろいろあったのに、過ぎてしまえば自由で無責任で、美しかった時間は、あそこにだけ流れていた気がする。

仕事がうまくいかなくて、恋はある日から終焉に向かって、
思い通りになる事なんて一つもなかったあの季節。
それでも仕事終わりに飲みに行ったり、愚痴をこぼしたり、オールナイトで遊んだり、
そういうある程度の無責任を謳歌する体力と少しの資金力を備えた新卒時代は全てが美しい、もう戻る事の出来ない青春時代だった。

きっと私たちが青春時代を青春時代として謳歌する事は非常に難しいのだと思います。
屋上で授業をさぼる事も、
下駄箱の中にラブレターが潜んでいいる事も、
放課後の教室で悪ふざけをする事も、
殆どの人間は体験せずに大人になっていく。
希望の部署でバリバリ働いてスピード出世する事も、
仕事とプライベートの両方を上手く両立させる事もできぬまま、
結婚をして子どもを持つ。

私たちの青春時代は大概の場合が灰色で、だからこそ私たちは小説や映画に夢を求めるのかも知れない。
そしてそういう理想と現実の歪に私たちはいつも辟易して、愚痴と汗と涙を零す。

だけど、本当の青春は青春時代の先にあると思うのです。
青春を謳歌しきれなかった私たちが同窓会で思い出すのは満たされなかったあの日々と、
コンビニでガリガリ君を食べながらデートがしたいと嘆いた夏と、
チョコレートを自分で買ったバレンタインだ。
そういう感情の起伏から無茶に走ったり、何かを諦めきれなかった日々を、不干渉になった大人な私たちはどう眺めるのか。

きっと私たちの青春時代が地味であればある程に、あの時代は燦燦と輝く。
私たちがあの時代を青春と呼ぶのはおそらくもう少し先のお話。

それではまた今度・・・。

今回紹介した書籍。



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