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ブックレビュー:おたく、それは永遠の思春期を生きる人たち‥‥なのだろうか?斎藤環著「戦闘美少女の精神分析」

 何か面白い本はないかな、と本屋さんで書架を眺めていたときに、目に飛び込んできたのが本書である。戦闘美少女という文字、そして表紙の綾波レイ。そういや、一時期こういうのが流行ったな、と思いつつ手に取って目次を見ていると、そこに、ヘンリー・ダーガーについて書かれた章を見つけ、これは読まなければと思った。

 ヘンリー・ダーガーの絵画と出会ったのは、2008年10月25日から11月30日にかけて、滋賀県立近代美術館で開催された企画展「アール・ブリュット パリ、abcdコレクションより」の中だった。アール・ブリュットとは、正規の美術教育を受けていない人々が、内発的な衝動の赴くままに生み出した表現のことをいう。ヘンリー・ダーガーは天涯孤独で、掃除夫などの仕事をしながら81歳で亡くなるまで、誰にも見せることなく長大な物語と、そのための挿絵を描き続けたことで、死後知られるようになった。


 物語のタイトルは「非現実の王国で」。その物語のために描かれた絵を見た瞬間、あ!と目を丸くしたのを覚えている。それは、私たちがよく知るところの世界観、純真無垢な少女たちが制服姿で武器を取って戦う、まさにアニメの世界そのものだったのだ。

 アール・ブリュットとアニオタの距離があまりにも隔たっていたためか、この二つの遠く隔たった世界の類似性に言及した文章に、その後巡り会うことなくここまできたのだが、この文庫本を手にとって、ようやくその言説に出会えたという気持ちになった。戦闘する美少女という、日本のアニメに特有と思われてきたキャラクターが、それとは全く無関係に、ある一人の孤独なアメリカ人男性によって生み出されていた。ではそこには、何か共通する精神的背景があるのだろうか。そんな興味をかきたてられたのである。


 さて、本書は「戦闘美少女の精神分析」と題されているが、内容に即して言えば、正確には「戦闘美少女を愛好するおたくの精神分析」というべきであろう。著者はひきこもりの支援などにも取り組む精神科医で、まず「おたく」を定義するところから項を起こしている。マニアとの違いという視点から、おたくとは実体のないもの、つまり虚構との親和性が高く、その虚構を所有する手段として、好きなアニメの二次創作物を作り「自分だけの虚構」へとレベルアップするのだ、という分析は、自分自身にもあてはまる感があり、非常に腑に落ちるものであった。
 一方、もう一つの定義として、おたくの本質はセクシュアリティにある、としているが、それについては、ややモヤモヤするところがあった。確かにおたくの二次創作物は性的な表現と切っても切り離せないところがあることは確かだが、本書が書かれた2000年と現在(2023年)では、おたくという言葉が、アニメという虚構からさらに広範囲へ拡散されて用いられるようになっているからである。例えば鉄オタ=鉄道おたくはセクシュアリティと関わりがあるだろうか。ガノタ=ガンダムのおたくといえば、性的な表現を含むアニパロから始まったともいえるものだが、もっぱらプラモデル製作に精を出すおたくも存在する。撮り鉄は写真撮影という手段によって所有できない列車を自分だけの虚構として所有し、ガノタはプラモデル製作を通してそれを実現するということになるだろう。そうしたことがセクシュアリティに関わるというのであれは、それはある種のフェティシズムといえようが、そこまで対象を広げると、どんどんと焦点がぼけていってしまう。結局のところ、ここでいうおたくとは、架空のキャラクターに性的興奮を覚える人、というほかなく、おたくの本質はセクシュアリティ、という結論は、性的興奮というリアルな反応が虚構にリアリティを与えるという著者の分析から導かれた視点ということになるだろう。

 本書の中でもっとも興味深かったのは、ヘンリー・ダーガーがいかにして「非現実の王国で」という作品世界を作り上げていったか、ということだ。実はその原稿そのものの解読はあまり進んでおらず、その作品がどういった内容なのかは大まかなことしか明らかにされない。ただ、この作品の主人公である戦闘美少女軍団ヴィヴィアン・ガールズが、まさに(一部の)おたくらが愛好する戦闘美少女と酷似していることから、ここにおたくの原点があるのではないか、という気にさせられる。その詳細はぜひ本書をひもといてもらいたいと思うが、ここで私が再び「自分にもあてはまるかも」と感じさせられたのは、自ら作り上げた虚構の中で、ダーガーは永遠の思春期を生きていた、という分析である。そちらの方が、よりおたくの本質といえるかもしれない。おたくは虚構世界の中で思春期に立ち返り、辛かったり凡庸だったりする現実からそこへと、いつでも逃避することができるのだ。

 この、ダーガーの描く戦闘美少女にペニスが描かれていることからヒントを得て、おたくの愛好する戦闘美少女はファリックガール(ペニスを持った少女)だとし、そうしたキャラクターが生成されてきた背景が分析されていくのだが、その間に相当の枚数をさいて、日本アニメに登場した戦闘美少女の系譜が説明される。これが冗長なうえに、今となっては気恥ずかしさを感じさせる微妙な古臭さがあって、まるでインターネット老人会に紛れ込んでしまったような気持ちになった。そうまでして類型された戦闘美少女の系譜だが、それが、著者のいうファリックガールとどうつながるのか、正直ピンとこないところがあった。

 一番物足りないなと思ったのは、精神分析といいながら、ダーガー以外に分析対象となる人物なり作品が登場しないことである。表紙にまでなっており、戦闘美少女ものの傑作として挙げられている「新世紀エヴァンゲリオン」だが、作品なり作者なり、あるいは本作の二次創作なりを俎上に上げて分析するなどしてみたらよかったのに、と感じた。

 著者のファリックガールが生成される論理については、いまひとつピンとこなかったのだが、私自身が素人考えで感じているところでは、おたくたる男性が日常的に接するファリックマザー的なもの(自分自身の母親であったり、あるいは学校や会社などの組織、もっと大きくいうと日本の社会構造)に対抗し、自らの内面を仮託する存在として生み出されたのがファリックガールではないのだろうか。ダーガーと日本のおたくに共通したものがある、と感じた背景に迫るためには、おたくの生活史、みたいなものとの対比が必要だったと思うが、そうしたアプローチがなかったことは残念である。

 もう一つ気になったのは、西洋文化圏では絵に欲情しない、絵に欲情するのは日本だけという見方である。そうだとすると、ファリックガールを描いたダーガー(彼は同時に敬虔なカトリック教徒であった)と日本のおたくとの間に共通するものは何かという問いに対して齟齬が生じているようにも思われる。結局のところ、おたくについて精神分析をしているといえるのかどうか、読み終わっても腑に落ちないままのところが多々あった。

 この中で、私が一番納得したのは、おたくとは、「自分だけの虚構の中で、永遠の思春期を生きる者」という分析であって、そこにある種の普遍性を見出すことはできそうだが、戦闘美少女というもの事態が少々陳腐化し退潮してしまったかに思える今、それでも残り続けるファリックガールたちの普遍的な意味を考え直すことには意味がありそうな気がする。

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