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【読書記録】暇・退屈・チェーンソー

先日、國分功一郎の『暇と退屈の倫理学』を読んだ。

人間にとって「退屈とどう向き合うか」が大きな課題になっているとして、経済や歴史や哲学の思想をたどりながら、人生と切り離せない「退屈」を紐解いている。

全部で500ページを超える大作だけれど、序章に「注釈はさしあたって読まなくてもいい」とあり、哲学書を読みなれていない者にも親切なつくりになっていた。



人は退屈に耐えられない

生きているという感覚の欠如、生きていることの意味の不在、何をしてもいいが何もすることがないという欠落感、そうしたなかに生きているとき、人は「打ち込む」ことを渇望する。大義のために死ぬとは、この羨望の先にある極限の形態である。

國分功一郎『暇と退屈の倫理学』p.36

衣食住が足りて健康であっても、原因のわからない満たされなさを感じることがある。原因がはっきりしないから、逃げたり戦ったりもできない。

退屈というぼんやりした苦しみから抜け出すためなら、理由の明確な苦しみや、自分を行動に駆り立てる事件を心の底で求めることもある。

そういった性質があることを認めたうえで、苦しみや事件ではなく、楽しく心地よいものを求めて生きるにはどうすればいいか、というのが本書のテーマだった。

序盤を読んで、このテーマに興味を惹かれた。

自分を振り返ったとき、特に10代の頃、このような感情は身近なものだった。周りの人が傷つくことは望んでいない一方で、何か大きな出来事が欲しい、という感情が心のどこかにあった。そのようなことを考えるのは不謹慎だし、表に出してはいけないとも感じていた。

本書では「退屈を避けるためなら苦しみも求める」という性質を、反社会的で異常なものじゃなく、人間によくあるものとして取り上げてくれた。ありがたい。

退屈と気晴らしが絡まった生


大義のために命を賭したり、一心不乱に仕事やミッションに打ち込んだりするとき、人は「決断」の奴隷になっている。一見すると英雄的でカッコいいが、実際のところ、いろんなことを考えなくていいので非常に快適である。

もう退屈に悩まされることもない。
やることが目の前にあって、後はひたすら遂行すればいい。
そのような状況に惹かれたとき、自ら進んで奴隷になってしまう。

奴隷になってはいけない。

気晴らしを存分に享受して、ほどほどに余裕を持って退屈と付き合いながら、自分を没頭させてくれる(自分をとりさらう)ものとの出会いを待とう。余裕があるからこそ、何らかの対象に没頭して楽しむことができる。そこに「人間らしい生」がある、という内容だった。

悪と戦ってカッコよく散る

退屈と苦しみについての論考を読んでいる最中に、滝本竜彦の『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』を思い出して、文庫本を数年ぶりに読み返した。

2001年に出版された小説。

平凡な男子高校生・山本陽介が、セーラー服の少女と、チェーンソーを構えた不死身の男の戦いを目の当たりにする。何のために戦っているのかわからないまま、主人公は一緒に戦いたいと切望し、少女を校門で待ち伏せして仲間に入れてもらう。

雪の降りしきる季節が舞台なのもあって、表紙イラストの空が薄暗く、2人ともあまり楽しそうでないところが本文と合致している。

ボーイミーツガールとしても読めるけれど、主人公が退屈や虚無感とどう折り合いをつけるか、という話にも受け取れた。序盤の主人公が、下宿で同級生と喋るところを引用する。

「(前略)神風特攻とか、結構気分よさそうじゃん。お祭りみたいで。なんつったって、絶対に正しい正義のために死んでゆけるんだぜ。最高じゃん。命を燃やして悪の鬼畜米英大軍団に一矢報いるんだ。アニメみたいでカッコいいじゃん」

滝本竜彦『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』p.33

ここだけ切り取ると誤解を招きそうだが、主人公の心境を端的に表しているように思えた。神風特攻が挙がっているが、戦争がしたいわけでも、人の死を望んでいるわけでもない。

信じられるものが何もなく、何をすればいいか分からない現状が耐えがたい。何と戦えばいいのか教えてほしい。信じられる正義と、戦うべき敵という構図の例として特攻が挙がっているのだと思う。

その後も、主人公のモノローグで、チェーンソー男との戦い(より正確には、戦う少女の送り迎えとアシストを担うこと)は現実逃避の一環かもしれない、と綴られている。

中途半端にダラダラダラダラ変わらぬ毎日をイライライライラ過ごし過ごして、どうしていいものかさっぱりわからず──だけど、ある日だ。
ついに救いが訪れた。
チェーンソー男だ。
謎の怪人だ。不死身の悪魔だ。本物の、敵だ。

滝本竜彦『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』p.261

物語を通して、チェーンソー男が第三者を殺戮して回ったり、警察や周りの目に留まって騒ぎになったり、という場面はない。ただ不条理で絶対的な悪、得体のしれない怪物として、主人公と少女の前に現れる。

主人公は「悪と戦ってカッコよく散ること」を望んでいたが、結末にかけての心境の変化が印象的だった。

生きているオレが羨ましいだろう!


ネタバレになるので詳細を伏せるが、主人公は物語の終盤、泣きじゃくりながらこの台詞を叫ぶことになる。

悪と戦って死にたい、変わらない日々に取り残されて退屈や不安に直面するのは耐えられない、と感じていた主人公が、目の前の風景を受け入れてこのように叫んでいる。

華々しい勝利でも惨敗でもない。退屈と不安と楽しみが入り交じった平凡な生を、主人公は自らの意思で選んだんだろう。

この物語での主人公の選択と『暇と退屈の倫理学』で示される人間らしい生き方は重なるように感じた。

特殊な能力や才能もないひとりの読み手として、これらの本から「ぼんやりした退屈や不安との付き合い方」の一例を教えてもらったように思う。

哲学書と青春小説という一見あまり関係ない組み合わせですが、気になった方はどちらも読んでくださると嬉しいです。


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