見出し画像

日記(最近好きなコンテンツ、坂本龍一、老人になった私)

最近疲れすぎていて、気力体力が何かに吸い取られている。やりたいことはたくさんあるのに、やるべきことに埋もれて、身動きがとれない。

隙間時間にみっちり読書をしていたのも、最近はぼーっと鑑賞できる映像をひたすら眺めている。私はNHKが好きで、NHKプラスのアプリで見逃し配信をよくチェックしているのだけれど、昨日発見した素晴らしい番組が『コズミックフロント☆ヒーリング』の「マジックアワー天空が魔法にかかるとき」の回。現在はアプリでしか観られないけれど、instagramで少しだけ映像が観られるのでぜひ。

仕事中に環境音を聴くことが好きなので、昨日はNHK 総合『魂のタキ火』をアプリで流しながら、仕事をしていた。別に疲れがとれるわけではないけれど、無音はさみしい、けれど音楽はノイズになるというときにおすすめ。

少し前から坂本龍一さんのアルバム「12」が好きで、よく聴いている。

20代の頃、誕生日が坂本龍一と山口百恵と同じというのをよく自慢していた。よくわからない自慢だけど、実はいまだに自慢に思っていて、それくらいに坂本龍一という人はめちゃくちゃかっこいいし、すごく好きなのだ。だから、この頃は気持ちが追いつかなくて、特集番組やら昔の動画を隙間時間にずっと観ている。(ツイッターで「1981年に坂本龍一が選んだ140冊の本」(昔の紀伊國屋書店のチラシに掲載されていたものらしい)というものが紹介されていて、少しずつ読んでいきたい)

日々疲れ果てて、時間が信じられないスピードで走り去っていく。

それでも時間を見つけて本を読んだり、興味のある番組を観たりするのは、意図的に物事を考えていたい、何かに気づいていたいというのがある。そうじゃなきゃ、この先私は歳をとってどこに向かうべきなのか見えなくなりそうなのだ。仕事と育児を終えたあと、私に何が残っているのだろう。そんな恐れがあるのだろうか。20代30代を終え、中年になった私はどこかそういうところがある。時代に合わせて、人に合わせて、効率を重んじて、そのときは必死に生きてきたけれど、私の手の内に何が残っていたんだろうって。

まあ、私は幼少期から考えることが趣味だったので、今もそれが変わらないだけかもしれない。

そういえば昔、高校の卒業式を終え、下宿先に引っ越すまでの時間、あまりに暇で昼間、近所の公園のベンチで寝ていたことがある。その公園は山の麓にあるのだけれど、私が寝そべるベンチからずっと離れた場所で老人たちが花見をしていた。レジャーシートを広げて、しかもカラオケ用の巨大なラジカセ(若い人は絶対わからないと思うけど)を持ち込んでいて、皆が陽気にうたって、飲んで、食べて。

当時18歳の私は老人の賑わいを「なにやってんだか」と少し冷めた感情を織り交ぜながら、眺めていた。そして、どこまでも広がる真っ青な空を見上げながら、ようやくこの退屈な田舎ともおさらばできるのか、なんて思っていた。春のうららかな午後、何もすることがなく、だからといって誰かに会いたいわけでもなく。何かをしなければならないというプレッシャーもなく、振り返ればとても贅沢な時間だった。

この季節になると、そのときの風景が不思議とよみがえる。そして、あの頃の私は今の私とさして変わっておらず、これまでの人生体験は一体なんだったんだろうかと、不思議で仕方ない(私の時間はどこいったー!)

成長していないというよりも、やっぱり「ここ」だったんだなという確信だろうか。でも、まだまだ理想を追い求めていたいところはある。でもその理想とは、憧れの何かになるというよりも、幼少期の私が持っていた感性とか、思い描いたものを、ブラッシュアップして形にしていくということかもしれない。

日々、疲れているけれど、私には出会いたいものがたくさんある。それは日々を効率的に過ごせるようヒントを与えてくれたり、私を何者かにはしてくれはしないけれど、素晴らしい才能やまだ見ぬ物語や思想に触れることが自分の人生にはどうしても必要なのだと感じてしまう。

これからの人生、人は何歳までの自分が見えているのだろう。私の場合は50代は見えても、さすがに60代は見えていない。だけど、このままだとあっという間に10年、20年は過ぎていきそうだ。娘が20歳になるとき、私は55歳か。人生は限られた時間しかないのだな。

時代はどんどん進化して、老人の私はもはや追いつけなくなるだろう。今だって一杯一杯だ。それでも、時代に流されすぎず、本当の意味での豊かさを守り続けられるおばあちゃんになりたいから、そのための準備期間が今なんだなと、どこかで思っている。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?