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だれも理解してくれなくても、だれに求められなくても

冒頭タイトルは名文記者として知られる朝日新聞編集委員・近藤康太郎氏の著書『三行で撃つ――〈善く、生きる〉ための文章塾』(CCCメディアハウス)の一節から抜粋した言葉である。

「文章は、だれに書くのか」——その問い先にある「理解」について話が及んだ時、近藤氏はこう綴る。

だれも理解してくれなくも、だれに求められなくても、自分のために、世界のために書く。そういう文章は、熱量が途方もなく高ければ、どこかに読者は現れる。

『三行で撃つ 〈善く、生きる〉ための文章塾』

しかし、ここからが重要なのだ。この一節に近藤氏は急いでこう付け加える。“「だれも理解してくれなくてもいいから、自分の書きたいことを書け」ということではない。”と。そしてロシアの詩人・作家レオニード・アンドレーエフの言葉「有名になるのか——でなければ生きるに当たらない」の真意を解説しながら、読者に問いかけるのだ。

自分の書くものは、世に受け入れられないかもしれない。理解されないかもしれない。しかし自分ひとりだけは確信している。世界の万人が理解し、感動し、牢記するべき文章を、自分は書いている。書くつもりだ。また、そうした確信がなければ、なぜ文章など書くのか。

『三行で撃つ 〈善く、生きる〉ための文章塾』

そこまで思いを巡らせて、文章など書くものだろうか。いや、もっと気楽に文章を書いたっていいじゃないか。そんな気持ちにさえなる。だけど、書くことの本質とは、代替え不可能な個人の発信(この言葉選び、好きじゃないなぁ)であり、その中には複雑なグラデーションを帯びた人の感情が織り込まれる。ほかの誰とも違うその人の声があるからこそ、文章は意志をもってその人らしく存在しているように思う。誰のためにもならないかもしれない。だけど、強い意志を持って、たった一人のためだけでも届けられる声があればいいんじゃないかと、いや、きっとその「強い意志」以上に必要なものってあるだろうか。そんなことを最近強く思う。

文章を書くことも人生もなんだか似ていて、いつも何かを面白がって生きていられること、そういった物事への熱量が大切なんだろうなと。「自分に飽きるな」——確かにそうだよな。だれも理解してくれなくても、だれに求められなくても、それでも没頭できる何か、熱中できる何かを持ち続けられるなら、それ以上の豊かさってないだろうな。なんて無敵なんだ。そんな豊潤な世界からこぼれだす言葉たちを私は求めている。

最近趣味で小説を書き始めた。公園でカレーを食べる魔女のような女と親友との友人関係に悩む女子中学生の話なのだが(笑)、2人はちょうどすれちがったくらいのところでずっと止まっている。傍若無人な魔女のような女が私は好きで、結局は「だれも理解してくれなくても、だれに求められなくても」、わが人生を思うがまま生きることへの憧れや渇望みたいなものがあるのだなと、書いていて気づく。まぁ、色々とこじらせたまま私の人生はいつか終わっていくんだろうけど、それならばそれで無意味で役に立たなそうなことをたくさん学んで、ある意味、豊かだったと言える人生を送りたいなと思う。













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