【店主のつれづれ】40歳で考える「人生の学びとは?」
こんにちは。「tobira.」店主のれいです。
なんだか最近は人生において、頑張りどきみたいなときがあるんだなとつくづく感じています。
そして同時に人によって年齢ごとに与えられるテーマが全く違うのかもしれないな……なんて。
例えば、学校を卒業して多くの人が社会人として働き始めるんだけど、「せーの」でみんなが同じ認識で仕事について学ぶわけでもなく、
人によってどの年齢でその物事の課題を学ぶかは変わってくるように思うんです。(わかりにくい説明でごめんなさい)
20代でいくら自分なりの成功を手に入れたとしても、それらが40代の成功や幸福を保証するわけでもない。
そのときどきの年齢でしか感じられないことがあるし、歳を重ねてから“あの瞬間”の答え合わせみたいなことが出てきて、時空を超えて学ぶこともたくさんある。
「なるほど、そういうことだったのね」と。
若い頃はとかく「○○とは」みたいなそれっぽい答えを知りたかったけど、体験がともなわないなかで理解が追いついていかなかったわけです。(私のこと…!)
だから“それっぽくいいことをいう人”がなんだかよく見えた瞬間もあったけど、自分が色々経験していくと、人のいうことの大半は自己演出だったり、ただの口から出まかせだったり、そこに真実があるわけじゃないことに気づいていくという……。
だからね、何が言いたいかと言うと結局人なんて、自分で手を動かしたことからしか学ぶことはないと思うんです。
その中で誰かの一言に「そういうことか」と学ぶことがあっても、体感することが重要で、解釈は多分年齢によって変わっていくものなんですよね。
そして私たちは大人になって「成熟」するわけではなく、子どもという成熟した生物から大人という未熟な生き物になっていくのかもしれないなんて思います。
それは自分の未熟さを理解するという成熟さを学ぶという意味でも。
「わかった」と思っていたことが、年齢を重ねてどんどんわからなくなるんですから(笑)
物事の真理を「とは?」と容易に語れるもんじゃありませんよね。
特に誰かの借り物みたいな言葉なんかでは……。
だからもっと自由でいいですよね、私たちは。
感じることに高尚さはいらない。
何を感じ、何を学ぶかは、自分のペースでいいわけで、何かを無理に学ぼうとしないスペースこそ、可能性に満ちた余白と私は呼びたい(笑)
話を元に戻すと、人にはそれぞれ頑張りどきというものがあるのです。
無理に頑張らなくても、「頑張りどき」は嫌でもやってきます。
それまではのんびり構えて、オリジナルで生きましょう。
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