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狂信者

 母がトラックにはねられたと聞いたとき、身体中から力が抜けた。駆けつけた病院で医師から「このまま意識が戻らない可能性も覚悟していてください」と言われたときようやく実感が湧き、人目を憚らず泣いてしまった。

 母は認知症を患っていた。病状はそれほど良くはなく、普段は落ち着いているのだが、ひどいときはわたしを泥棒だと勘違いして泣きわめくこともあった。そんな調子では当然一人で外出もさせられない。いつか赤信号の意味も忘れて道路に飛び出してしまうのではないか――

 だが結婚四年目のわたしには介護ヘルパーを頼むような金もなく、夫と住むマンションと母の待つ実家を行き来する生活が続いた。

 重たかった。今年でわたしも二十八だ。夫との時間が奪われるのはつらいし、そろそろ子どもだって考えている。

 夫に相談すると、
「そうは言ってもお義母さんがあんな調子じゃな」
 そう厳しい横顔で言われた。
「それはそうだけど……」
「でも確かに子どもは欲しいね。子どもができたら僕、何でもしてあげちゃうな」

 幸せそうな笑顔だった。瞳に諦観が滲んでいるのが見えて苦しくなった。わたしが彼との結婚を決めたのは、笑ったときの瞳の色が好きだったからだ。それが今濁っている――
「そうね、わたしも。わたしも子どものためなら何でもする」

 そして、あなたのためにも。

 心の中でそっと呟き、夫の笑顔を免罪符として掲げた。
 ほんの少し可能性を上げるだけで良かった。母の調子が悪い日、鍵を開けておく。ただそれだけを半年間繰り返した。
 ようやく結果が出たのだ。わたしは泣きはらした瞼を擦りながら、昏い笑いに背を震えさせていた。医師はわたしに寄り添うような顔で、
「おつらいでしょうが気を落とさないでください。あなたのせいではありません。病状もだいぶ進んでいたようですし、人の顔だけでなく信号が認識できなくなっていた可能性も……いえ、そればかりかトラックすら認識できていなかったかもしれません」

 そのとおりだった。ここ最近はわたしのことを理解できている日はほとんどなく、まったく別人の名前でわたしを呼ぶこともあったのだ。
 医師の言葉を聞いていると罪の全てを許されているような気持ちになった。

 そうだ、わたしは悪くない。わたしは悪くない……

    *

 夫が浮気を打ち明けてきたのはその二日後のことだった。テレビで流れる夜のニュースがやけに騒々しく感じられた。
「え……?」
「だから会社の部下と少し前から親身になってたんだって。二ヶ月くらい前からかな。口説くのに結構苦労したんだけど、何回かホテルに行ってあげたらあとは泥沼って感じで」

 ニュースキャスターが原稿を読み上げている。理解がまるで追いつかなかった。

「今日ようやく縁は切れたけどさ、一応報告はしとくべきだって。縁を切るのも大変だったよ。なかなか納得してくれなくて……」

 仕事の愚痴をいうような軽薄さだった。

「そうだ、それよりお義母さんの調子、悪いんだってね。良かったじゃん。これで心おきなく子どもを作れるよ」

 頬に皺を寄せて屈託なく笑う。瞳の色は変わらないのに別人を前にしているようだった。彼と同じ瞳を持った別人が、彼の表情や仕草を真似て立っている――
 優しい手つきで髪を撫でられ思わず後ずさった。夫は気を悪くした様子もなく、

「顔色悪いよ。最近あんまり寝てなかっただろ。ダメだよ、もうこれからは子どもの体でもあるんだから」
「なんで……」
「なんでって、子ども欲しいって言ってたじゃないか。元気な子を産むためにはお母さんがまず元気でなくちゃ」
「そうじゃなくて!」

 ニュース番組が終わり、バラエティ番組が始まった。夫が好きな番組だった。

「なんで、浮気なんて……それに母さんのこと、そんな不謹慎な……」
 夫は一瞬不機嫌そうな顔になったが、すぐに得心顔で頷き、
「そうか。まだ何も言ってなかったね。一人で盛り上がっちゃって恥ずかしいな」

 バラエティには目もくれず、ニュース番組に変えた。

「ほら、ちょうどやってる」
 テレビに視線を移すと、母の交通事故が報じられていた。淡々としたものではなく、テロップにまで熱が込もっているようだった。

〈トラック事故、作為的な事件か。二十四歳、女を逮捕〉

 何度読み返しても逮捕という文字は消えなかった。
「大変だったよ。好きでもない女とセックスするなんて。援助交際で稼ぐ女子高生になった気分だった。穢されるって、ああいうことを言うんだろうね」

 アナウンサーがしつこく「逮捕」という言葉を繰り返している。

「ミナミが何をしようとしているかはすぐに気がついた。やっぱり夫婦だからかな。僕も同じことを考えていた。でもなかなか上手くいかなかったよね。お義母さん、家の外に出てもすぐに戻っちゃうんだ。大通りどころか敷地の外へも出てくれない」

 携帯電話が鳴りだした。恐らく警察だろう。

「だから僕も手伝うことにしたんだ。会社の部下に少し前から色目を使ってくる子がいて、ミナミに比べたら路傍の石みたいな子だったけど。使えると思って必死に口説いて、ようやく協力してくれるようになった。お義母さんを大通りまで連れてってもらったんだ。正気に戻ったとき困るからその前に少し仲良くなっておいてね。で、そのときちょっとだけ含みを持たせた言い方をしておいたんだ。『お義母さんがいるせいで生活が苦しい』って。そしたら道路に押し出すところまでやってくれた」

 テレビに犯人の女の顔が写った。名前はいつか母の口から聞いた記憶があった。わたしよりも若く綺麗な子だった。

「使える子だったよ。でも大変だったのはそれからでさ。責任逃れしようとするんだ。あまつさえ僕がやらせたように言ってさ。自分の意志で押し出したくせに、ひどいと思わない?」

 電話はまだ鳴っている。

「それで今日、ちゃんと捕まって出所してきたら結婚するって約束をして、ようやく手打ちになった。どうせ事故処理されてるんだしそのままでも良かったけど、あの子がいつ口を滑らすか分からないからね」

 取るべきか迷っているうちに電話は止まってしまった。

「ああ。もちろんミナミを裏切るようなことはないから。彼女が出所してきても別れる気はないし、あの子と一緒になる気もないよ。安心した?」

 母の事件報道は終わり、天気予報を伝え始めた。明日は全国的に快晴で過ごしやすい一日になるらしい。
「せっかくだし明日はどこか出かけようか。ずっと遠出できてなかったでしょ。これを機に羽を伸ばしてさ。いつか子どもを連れて行って、『むかし二人で来たんだよ』って思い出話ができるといいな」

 彼の瞳にはもうわたしは映っていなかった。五年後、十年後の輝かしい未来が起こりうる現実として上映されている。
「なんで、こんなことを……」
 呟きが漏れた。夫は見透かすような笑みを浮かべて言った。

「僕は君のためなら何でもするんだ」


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