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娯楽を享受する資格

先日、赤えんぴつの武道館ライブに行ってきた。
赤えんぴつとはバナナマンの演じるコントキャラの一つで…みたいなことをくどくど説明する気はないので各自の検索能力に望みを託すが、再三繰り返し言うように俺個人はそんなことをしている場合では全くない。
そんな場合では全くないのにチケットに当選してしまったので可能な限りで諸々の体制を整えて行ってきたのだ。

ライブ自体は素晴らしかった。感動した。
しかし、同時に「やはり俺はこんなことをしている場合ではなかったのか」みたいな目にもあった。
詳細をここに書くのは控えるが、ただでさえメンタルがやられてるなか(本当にメンタルがやられている人間はライブに行ったりしないんじゃないか、みたいな批判には一切耳を傾けないことにする)それでもなんとか自分を奮い立たせる意味もあっていろいろ工面して行ったにも関わらず、やはり「資本主義」という壁に阻まれるので「生産できず消費しか能のない自分が消費すらできなくなったら本格的に社会参画の道が途絶えるのでは?」という気持ちになった。

あと「めちゃくちゃ行きたかったし見たかったけど持病の関係で働けず手持ちが一切なかったため配信チケットすら買えなかった」みたいなnoteも見てものすごく共感してしまったし、同時に結構有名なリスナーさんが「めちゃくちゃよかった、このライブを見ない人がいるなんて信じられない。配信チケット買わなくて大丈夫ですか?後悔しません?」みたいなことをXでつぶやいていて猛烈に腹が立ってしまったのもあった。

正直、ライブやイベントというのは文字通りの「ハレの日」で、この日のために一生懸命節約したり働いたりして念願のチケットを手に入れ初めて参戦する人や、前述のようにそういう努力すら叶わず見ることさえできない人もいるかもしれない。
ただ共通しているのは、誰にとってもその日が「特別な日」であるということだ。

それらを「享受できて当たり前」みたいに言うのはどうなのか。
朝から並んだのに欲しいグッズが売り切れで買えなかった人もいる。
そもそも地方済みで交通費が捻出できず現地に来ることを諦めた人も多いかもしれない。
配信されるとはいえ、配信と現地ではその体験に大きな差があることは言うまでもない。
みんながみんな「配信でいいや」「今回は行かなくていいや」と割り切って、日常を送ることができるのが一番だ。
でもそれでは息切れするから、日頃溜めに溜めたものを放出し分かち合う瞬間が人生には必要なんじゃないか。
それができない人間がいる、ということは充分差別に当たるんじゃないか。

僕だって無職の端くれなので金銭的理由で諦めたことはたくさんある。
それらの娯楽を楽しんでいる人を見て「いいなぁ、羨ましいなぁ」と思いつつ、自分をすり減らしたこともたくさんある。

だからこそ、今回は楽しめるだけ楽しもうと思った。
「今回来れなかった誰か」や「いずれこういう場所に足を運ぶことすら叶わなくなるであろう将来の自分」の分も楽しもうと思った。
なのに、なのに。

やっぱり、働いてなくてお金のない人間が生活必需品以外のものに手を出しちゃダメですか?
最底辺のところで死ぬまで一生這いずり回ってないとダメですか?
そんなの、本当に「生きてる」って言えますか?

つらい日常を忘れ、ただ娯楽に身を委ねる瞬間は、誰にだって許されていいはずだ。
なのに社会的弱者は、その「資格」を手に入れようとすると白い目で見られることが多々ある。

そんな社会は、不健康極まりない。
何が「健康で文化的な最低限度の生活」だよ。ちっとも文化的じゃない。

あぁ、全く持ってまとまりのない文章になっているな。
でもこの思考を上手くまとめられるほど、今の自分は冷静ではない。
目に見えない重圧に押し潰されそうになりながら、ぶつけようのない怒りをどこに投げつけるでもなくただ大きく振り上げることしかできない。

何より、「赤えんぴつin武道館」を全力で楽しいものにしようと思い関わってくれたすべての人達に申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
「心の底から楽しめなくてごめんなさい」と。
「自分のような人間がライブを見てしまってごめんなさい」と。

そんな気持ちになる人間がいる時点でおかしいだろ。

俺にだって、この文章を見ているあなたにだって。
誰にだって、娯楽を享受する資格はあるはずだ。

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