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富雄丸山古墳発掘調査現場の一般公開に行ってきました(後編)

前編はこちら↓

造出し部粘土槨

造出し部粘土槨 蛇行剣のと盾形銅鏡を表す模型の下に木棺の一部が見えている

 墳頂から工事用のタラップを下ると完掘された墓坑とその内部の粘土槨が見えてきました。墓坑は約7.4m×約3m×約1m、粘土槨は約6.4m×約1.2mの大きさです。この粘土槨は造出しを造り終えテラス部に砂利を撒いた後にわざわざそこを掘り返してから構築されており、埋葬が終わり墓坑を埋め戻した後に墳丘2段目斜面が構築されていました。つまりこの埋葬施設は古墳を築造する段階では当初計画されていなかったものの、古墳の築造中に計画が変更され急遽造られたものだと考えられています。

 粘土槨とは木棺を粘土で覆った埋葬施設のことで竪穴式石槨を簡略化した埋葬方法と考えられています。日本の気候や土壌の関係で本来土に埋もれた有機質は腐食して遺らないことが多いのですが、この粘土槨にはなんと奇跡的に木棺が遺っており、コウヤマキ(高野槇)で作られた割竹形木棺であると判明しました。

遺存していた木棺の木材

 コウヤマキは日本の固有種であり、近畿などの有力古墳に埋葬された木棺によく使用されていました。日本書紀においても「まきは以て顕見蒼生うつしきあをひとくさ奥津棄戸おきつすたへ将臥之具もちふさむそなへに為す可し」(意訳:棺は槇で作りなさい)と記されています。
 木棺はまだ開蓋されておらず今後の調査に期待というところなのですが、この木棺を覆っていた粘土の中から木棺を守るように鼉龍文盾形銅鏡と巨大蛇行剣が発見されたのです。

鼉龍文盾形銅鏡

 鼉龍文だりゅうもん盾形銅鏡は盾のような形状をした約64cm×約31cmの大きさのもので、背面の中央には「ちゅう」(古代の鏡や印などに見られる紐を通すための穴が空いたでっぱり)があり、鋸歯文きょしもんや鼉龍文による豪華な装飾が施されています。しかも表面は平滑に研磨されており、鏡のような銅板ではなく実際に鏡として使用できたものだと考えられ、鼉龍文は倭鏡(中国からの舶来品ではない国産の銅鏡)によく見られる装飾であることなどからこの鼉龍文盾形銅鏡は日本(倭国)の銅鏡職人が制作したものであると考えられています。

鼉龍文盾形銅鏡の実物大模型
真ん中の丸い突起物が鈕で、その上下にある円の中に鼉龍文が画かれている

 同様の鏡はまだ発見されておらず前代未聞のものなのですが、奈良県天理市の行燈山古墳(崇神天皇陵に治定)から江戸時代に出土したとされる銅板との関連性が注目されています。

 この銅板は現在では所在が失われ現存しないのですが、江戸時代に当時の柳本藩による陵墓修復工事の際に後円部から出土したとされ、大きさは約70cm×約54cm、片面には古代鏡の一種である内行花文鏡のような文様が刻まれており背面は田の字型の文様が刻まれているという特異な物体です。行燈山古墳は古墳時代前期の4世紀前半に築造されたと考えられており、富雄丸山古墳より先行して築造されたと考えられます。もしかするとこの伝行燈山古墳出土の銅板は富雄丸山古墳の鼉龍文盾形銅鏡のプロトタイプなのかもしれません。

蛇行剣

 一方で蛇行剣は読んで字の如く刃部が曲がりくねった蛇のような形をした剣のことです。蛇行剣は実用に向かない形状であること、その材質が刃物には適さない低純度な鋼で作られているケースが多いこと、数少ない出土ケースのほとんどが墳墓に限られていることなどから祭祀や儀礼用の剣であるという説が一般的です。

 蛇行剣は古墳時代中期の初め頃、畿内で登場し始めたと考えられています。しかし当時のヤマト王権において中心的な役割を担った大首長達が葬られた前方後円墳からはほとんど出土せず、専ら大型の円墳や方墳にその出土が限定されていました。

兵庫県 茶すり山古墳 直径約90mの超巨大円墳
大量の鉄製武具が出土し、交通の要所をヤマト王権から任された在地首長の墓とされる
茶すり山古墳から出土した蛇行剣

 一応この蛇行剣出現期の前方後円墳としては畿内では奈良の島の山古墳、地方では宮崎の南方39号墳茶臼原1号墳から出土していますが、島の山古墳から発見された蛇行剣は前方部の埋葬施設であることから古墳の主たる人物ではない人物(他の出土品から見て後円部被葬者の妻と考えられている)の埋葬品であることや、宮崎の2古墳はヤマト王権の中枢から遠く離れた地方のものであることからやはりヤマト王権内において蛇行剣は非常にマイナーなものであったと考えられています。

 そして古墳時代中期中頃から後半になると大型だけでなく幅広い規模の円墳や方墳から出土するようになり、これまで出土が見られなかった関東や北陸からも出土するようになります。そしてこの時期になると九州南部の地下式横穴墓から蛇行剣が大量に出土するようになります。しかし古墳時代中期中頃以降を見ても蛇行剣が前方後円墳から出土した例は埼玉県や石川県といった地方のみであり、大多数は円墳や方墳・地下式横穴墓といった前方後円墳よりもランクの低い形態の墳墓から出土していることを考えると、いずれの時期においても蛇行剣の地位はヤマト王権で中心的役割を果たした大首長の墓に副葬されるレベルのものではなかったと考えられます。

 さてこの富雄丸山古墳の築造時期は古墳時代前期後半。つまり富雄丸山古墳から出土した蛇行剣は国内最古例とのものであると判明しました。しかも全長約267cmは日本最大の蛇行剣であるどころか日本最大の鉄剣でもあります。これまで見つかっていた中で最大の鉄剣は広島県 中小田2号墳出土の115cmのものですのでその2倍以上もあります。
 古墳時代前期後半の富雄丸山古墳で蛇行剣が発見されたことで登場年代の通説は崩れましたが、富雄丸山古墳は奈良県に所在し墳丘は直径109mの超大型円墳、つまり蛇行剣は畿内から発生し専ら大型円墳に副葬されるという事に関しては概ね通説通りです。

 古墳時代、ヤマト王権は鏡や鉄製武具の製作や流通を一元的に管理し、それらを地方首長に下賜することで統治の助けとしていました。しかし蛇行剣は上記の通り畿内で発生したものの、同じく畿内の前方後円墳に葬られるようなヤマト王権を運営する大首長達には広まらず、前方後円墳が作れない程度の首長を中心に地方へと広まっていきました。加えて全国から出土する蛇行剣の屈曲数や屈曲具合をみると規格化されたものではないと考えられており、蛇行剣がヤマト王権の下で一元的に製作され管理されていたとは考えにくいのです。しかし時代を経る毎に蛇行剣が日本列島の南北へと広まっていったことは事実であり、誰かしら地方に影響力のある在畿内の勢力が製造・流通に関わっていたとも考えられます。
 これは完全に筆者の妄想ですが、もしかすると日本最古かつ日本最大の蛇行剣が出土したこの富雄丸山古墳の被葬者が蛇行剣を全国の地方首長に流行らせたインフルエンサーなのかもしれませんね。今回の大発見が謎多き蛇行剣の解明に繋がれば良いなと思います。

富雄丸山2号墳・3号墳

 富雄丸山古墳の北東にはかつて1972年の調査で発見された既知の古墳である富雄丸山2号墳及び3号墳があります。
 2号墳は6世紀後半に築造された右片袖式横穴式石室をもつ古墳ですが、3号墳は当時の発掘調査でも埋葬施設を検出できませんでした。しかし奈良市が実施した航空レーザー測量調査の結果、2号墳と3号墳がひと繋ぎの前方後円墳である可能性が生まれたため今回発掘調査を行なったそうです。

2号墳
3号墳

 発掘の結果2号墳と3号墳の間には両者を区画する溝がないことや、3号墳の墳頂を掘り下げても埋葬施設が発見されなかったことから2号墳を後円部、3号墳を前方部とした全長約40mほどの前方後円墳である可能性が極めて高くなったということです。

左側が2号墳(後円部)、右側が3号墳(前方部)
2号墳(後円部)の石室

私見

 ここからは私見という名の完全なる筆者の妄想です。ご注意下さい。

 日本の古代史における大発見である鼉龍文盾形銅鏡と巨大蛇行剣が発掘された富雄丸山古墳ですがその被葬者は謎に包まれています。報道などでは「ヤマト王権を支えた有力者だ」と言われていますがはたしてどうなのでしょうか?

 富雄丸山古墳がある富雄の地には長髄彦ながすねひこと呼ばれる人物の伝承があります。

 長髄彦は奈良盆地を拠点にしていた在地豪族で、奈良の生駒の地に降臨した神の子である饒速日命にぎやはひのみことに仕えていました。そんな中大和から遥か遠く日向の高千穂から神倭伊波礼毘古かむやまといはわれびこという者が軍を引き連れやってきました。
 神倭伊波礼毘古はこの日本を統治するにはここ高千穂より東、特に大和の地に行くのがよいだろうと考えていたのです。それを知った長髄彦は大阪の浪速の地で神倭伊波礼毘古を迎え撃ち、長髄彦の軍隊は神倭伊波礼毘古の軍隊を打ち破って神倭伊波礼毘古の兄を戦死させるなどの大勝利を上げました。しかし吉野より迂回して再度大和に侵入してきた神倭伊波礼毘古の軍勢と再戦した際、どこからともなく飛んできた金色の鳶が神倭伊波礼毘古の持っている弓に止まり、突如まばゆい光を発したかと思うと長髄彦の軍はたちまち目がくらみ戦意を喪失してしまいました。
 こうして無力化された長髄彦は神倭伊波礼毘古に対し「私は饒速日命という神の子に仕えている。お前らも神の子だと言うがどうして神の子が2人もいるんだ!!」と主張し饒速日命が神の子である証拠(あまつしるし)を提示しますが神倭伊波礼毘古も自分が神の子であるという証拠(あまつしるし)を提示します。それを見た饒速日命は「たしかに神倭伊波礼毘古も神の子だ」と納得し恭順しようとしますが、納得できない長髄彦はなおも抵抗しようとしたため饒速日命に殺されてしまいました。こうして神倭伊波礼毘古は畝傍山の麓に橿原宮を作り、そこで神武天皇として即位し日本で初めての天皇になったのでした。そうして長髄彦の本拠地であり長髄の名を冠していた地域はその金色の鳶になぞらえて鵄邑とびむらという名前で呼ばれるようになり、今の鳥見とみという地名の元になったとさ。めでたしめでたし。

 ここでいう「鳥見」という地域が転じて「富雄」になり、それが今の富雄付近であると考えられています。富雄周辺は古くは鳥見郷や鳥見庄とも呼ばれ、今なお「鳥見町」や「とりみ通り」という地名にその名を残しています。

 さて考古学や歴史学上、神武天皇は実在しない可能性が高いと考えられています。しかし神倭伊波礼毘古が九州の日向の地から東国に政治の拠点を動かすために東征したという神話の記述と、弥生時代当時の日本の中心であった九州から次第に奈良盆地へと勢力が移行していき後のヤマト王権の成立に繋がるという歴史上の流れなんとなく一致しているような気がしませんか?
 もし神話の記述が少なからずなにかしらの史実を踏まえた上で記されていたとすれば、長髄彦の伝説は奈良盆地の富雄付近に拠点を構えた在地勢力と初期ヤマト王権との戦いを元に創作された可能性があるかもしれません

 加えて個人的にしっくりこないのは富雄丸山古墳が円墳であるということです。古墳時代前期から中期にかけて、自分の墓として前方後円墳を作ることができると言うことはヤマト王権から認められ一定の地位を与えられたという証左でした。
 ヤマト王権が統一的な国家として成立するのは少なくとも古墳時代中期の倭王武の時代であったと考えられています。倭王武は軍を率いて南は九州から東は関東までを制圧し、当時の中国の王朝である宋にその成果を報告して「倭国王」を自称し「安東大将軍」の称号を叙すように要求したとされています。
 倭王武以前のヤマト王権は各地の有力豪族達と同盟関係を結んでおり、1つの国家と言うよりはむしろヤマトを中心とした連合国家だったと考えられています。その連合を組む対価として地方首長には前方後円墳の築造許可や築造プランの供与だったり鏡や鉄製武具の下賜が行なわれていたと考えられているのです。
 ヤマト王権が前方後円墳の築造プランを地方と共有していたとされる例としては、岡山県の浦間茶臼山古墳や京都府の椿井大塚山古墳は箸墓古墳の1/2の規模で形が相似していたり、滋賀県の膳所茶臼山古墳や兵庫県の五色塚古墳は佐紀陵山古墳と相似形を為していることなどが挙げられています。

 一方で富雄丸山古墳の被葬者は当時の権力の中心である奈良盆地に勢力を有し、しかも直径109mにも及ぶ巨大な墳丘を築造しコウヤマキで作られた木棺を使用できるほどの権力を持ち、加えて全国でも類例のない盾形の銅鏡や全国最大の鉄剣・複数の三角縁神獣鏡を副葬できるほどの財力もあったのにもかかわらず、当時の権力の象徴である前方後円墳を作ることが許されなかったのです。それはなぜなのでしょうか。
 それは前述した長髄彦の伝承も踏まえて考えてみる(妄想してみる)と、富雄丸山古墳の被葬者は一度ヤマト王権に反抗した一大勢力の首長だったからなのかもしれません。もともと在地の豪族として一大勢力を持っていた故にヤマト王権に反抗した末に敗北し、そこから恭順してヤマト王権に熱心に仕えたことで再び権力と財産を得たものの一度刃向かっていると言うことで前方後円墳を作る許可は下りなかった、と考えることは出来ませんか??そうして富雄丸山古墳の被葬者の勢力はその後没落し、6世紀後半になってようやく再興した子孫が先祖の悲願であった前方後円墳(富雄丸山2・3号墳)を200年越しに築くことが出来た、というストーリーだったら面白すぎますよね。

 と以上個人的な妄想をつらつら書いていたのですが、とはいえ卑弥呼とその後を継いだ台与の時代である3世紀後半から倭の五王が出てくる5世紀までの150年間は中国の資料に倭国の様子が一切現れないため空白の4世紀と呼ばれています。史学的資料が乏しい中で考古学から得られる断片的な情報と神話のエピソードでこの空白の4世紀を考察をしてみるのもなかなか楽しいかもしれませんね。

 今回の発見を受けて奈良市は富雄丸山古墳の調査期間を延長することにしたそうです。造出し部粘土槨の木棺の開蓋もあるかもしれません。これからも富雄丸山古墳からは目が離ないですね!!

◆参考資料
奈良市教育委員会(2023). 富雄丸山古墳の発掘調査-第6次調査-
古代歴史文化協議会 (2022). 刀剣-武器から読み解く古代社会- ハーベスト出版

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