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虐待防止研修の資料を準備しつつ色々考えてみる。

明日の12月12日は、会社の創立記念日です。
ですので、訪問介護事業所としては休業日としていて職員みんなで研修ついでにいろいろ面白い事をやろうかな、という日にしています。

そんなわけで、明日は日帰り温泉で昼食を頂きながら、定例会議と虐待や人権に関する研修を行い、この1年を振り返る1日になりそうです。

ちょうど先月ですが、登別市主催の高齢者虐待防止の研修にほぼ全ての職員が参加しましたので、虐待についてはおさらい程度でいいかなぁと思ってはいるのですが、介護という何等かの援助が必要な方に対して何かの役に立つことで報酬を得るという仕事をしている介護現場で、なぜ虐待がなくならないのか。

普通に考えれば、虐待とは無縁な人間集団が介護職であるはずなのに、なぜ国から虐待や人権の研修をしなさいと言われて定期的に実践できているかどうかもチェックされているのにも関わらず、なぜ虐待がなくならないのか。

ちょっとそういう所について、この記事を書きながら自分なりに深めていこうかと思っています。

答えは出ないんですよね、こういう問題については。
だから解決は難しいし、なくなっていないんだと思うんですけど、だからといってそこから目をそらしてはいけないと思っています。

介護職だからこそ、考えて悩んで苦しい想いをしなくてはならんのだと個人的には思っています。

それが、僕なりの介護の専門職としてのプロ意識の一つだと思っています。


虐待とは

虐待(ぎゃくたい、英:abuse, maltreatment)は、繰り返しあるいは習慣的に、暴力をふるったり、冷酷・冷淡な接し方をすることである[1]

具体的な内容は様々で、肉体的暴力をふるう、言葉による暴力をふるう(暴言侮辱など)、いやがらせをする、無視をする、等の行為を繰り返し行うことをいう。

Wikipedia ‐虐待‐

虐待とは、細かく説明すると〇〇的虐待とかいろいろあるんですが、簡単に考えれば”いじめ”や”嫌がらせ”の事だろうと思います。

”いじめ”や”嫌がらせ”というのは、どうも日本人にはそんな酷い事ではないような印象があるような雰囲気がありますが、これはされた側にとっては一生ものの心の傷やトラウマになるわけで、場合によっては”いじめ”や”嫌がらせ”を原因に自殺してしまったり、という事件に発展するケースだってあるくらい酷い行為であると言えます。

僕自身、虐待というのは”弱い者いじめ”と位置付けて考えるようにしています。
個人の精神的・肉体的な強さ弱さというのは関係なくて、こういう弱い者いじめというのは集団対個人になる構図がほとんどだと思っています。

僕自身は、この集団の中に傍観者も含むと考えています。

弱い者いじめをしてはいけません、というのは当たり前の常識なんですけど、日本全体でいじめがなくならない事を考えると、どうも人権意識が海外よりも軽くみられているような気がします。

実際、虐待とは尊厳を傷つける行為なので、人権を守る大前提があれば発生しにくい環境は自然と生まれるはずなんです。

人権とは

人権(じんけん、: human rights)とは、単に人間であるということに基づく普遍的権利であり[1]、「人間の生存にとって欠くことのできない権利および自由」とされる[2]。「対国家権力」または「革命権」から由来している[1][3]ブルジョア革命(資本主義革命)によって確立された権利であり、「近代憲法の不可欠の原理」とされる[4]

人権は人が生まれつき持ち、国家権力によっても侵されない基本的な諸権利であり[4]国際人権法(international human rights law)によって国際的に保障されている[5]

Wikipedia ‐人権‐

人権は侵害されない大事な権利なんですけど、それぞれが人権を持っている人間同士が集団生活をするわけですから、ある条件下では人権が制限される場合もあるというのが以下の内容です。

人権への制限・制約原理[編集]

人権は原則として尊重されるべきで「不可侵」とされているものだが、制限の無い人権同士では矛盾・衝突するために「他人の権利を不当に侵害しない限り」「本人保護のため[注 3]」には常に制限されている[77]。そのため、人権は絶対無制限でなく、日本国憲法においても人権同士の衝突調整基準の「公共の福祉に反しない限り」で制限している[77]。例えば、表現の自由や人権は尊重されるが交通渋滞を起こすような路上での行使は、他者の「移動する自由」を侵害しているために許されない[77]。また集合住宅において、大声で歌ったり足を踏み鳴らしたりする権利は制限される。また、授業中に、教師の許可なく教室の外に出る権利は制限される。あるいは、犯罪を犯した時は、身体の自由へ制限される(逮捕される)場合がある。このように人権は、少なくとも人権の相互調整という観点から一定の規制は免れ難い[55]

Wikipedia ‐人権‐

病院で拘束したりできるのは、この本人保護のため、という根拠の元に行われています。

また高齢者虐待防止法という法律もあって基本的には介護現場であっても虐待は一切認められないです、当たり前ですけど。

人権意識と根性論


なぜ人権意識が低いのかなぁ、欧米と違ってるのかなぁ・・・というのはずっと気になっていたのですが、日本によくある根性論と因果関係があるような気がしていました。

ちょっとそういう感じで調べていると、こういう記事を見つけました。

実は、「人権」は万国共通の理念と思われがちだが、日本には欧米と異なる人権理念がある。明治の評論家山路愛山は、欧米とは異なる日本の人権があることを早くから指摘していた。経済学者の河上肇は日本の人権を天賦人権ではなく「国賦人権」だと言った。二人の言っていることは要するに、人権が国によって「恩寵」として与えられている、ということだ。

日本人に人権意識が低いのは、欧米と異なる「日本の人権理念」がすでに根付いているからだ。それは国家の政策によって日本人の意識に浸透している。

現代メディア

この記事読んだ時に、あーわかる気がする!って思いました。

日本人って、どこかで国から与えられている権利って意識あるような気がします。

その辺の解釈の違いがいろいろな間違いを引き起こしている可能性ってありそうな気がしました。

欧米の人権はキリスト教プロテスタントの影響の中で生成した。16世紀に始まった信仰の自由を求める彼らの運動が、神に創造された人間として生きる権利を法的に保障する動きへと展開したのだ。

重要なポイントは、彼らの運動が抵抗権に支えられていたことだ。抵抗権とは、君主に勝る存在(神)を根拠にした人民の権利だ。人民は君主に忠誠を尽くすが、非人間的行為を強いる暴君に対しては抵抗する権利を主張した。人間として生きる権利は、王であっても犯すことができず、違反した場合は聖書が証しする神を根拠として抵抗したのだ。

日本の為政者が常に警戒していたのはこの抵抗思想だ。君主に抗う抵抗思想が民衆に入ることを恐れていた為政者は、欧米のキリスト教がそれを育むことを感覚的に知っていた。

現代メディア

なるほどなぁと思いました。
歴史的な歩みが全然違うというか、そういう意味では神=権力だった日本人にとっては、逆らうなんて事はありえない文化だったという事でしょう。

そこで1872(明治5)年、身分の区別に関わらず全国に兵を募る国民皆兵制を天皇勅令の形式で行なった(「徴兵の詔と告諭」)。ここに「人権」という言葉が登場するのだ。

大意は以下のようになる。「政権と諸藩の領土を天皇に返上したことで、四民はようやく自由を得たのである。自由とは、上下の区別がないことであり、これがすべての人に人権を与える道である。このことが兵士と農民が一つになれる基礎なのである。武士も民もこれまでの身分と異なり、万民が等しく皇国の民であり、国に仕える時にこれまでの身分の区別はないのである」。

重要なことは、ここでは身分の区別がないことが人権と呼ばれていることだ。それは天皇のおかげで確立し、徴兵を目的とする文脈で語られた。すなわち、日本においては、天皇の軍隊として戦うことで身分格差撤廃という人権が保障されたのだ。言い換えると、天皇への忠誠に身分の違いが無いという平等思想だ。日本の人権は一君万民の平等論として登場し、勅書の形式で民衆に訴えかけた。


見逃してならないことは、「平等」ではなく「平均」という用語が使われたことだ。言葉そのものが意味する通り、それは身分の平均と平準化を意味した。そこで謳われている自由は個を重んじる自由ではなく、階級からの自由であった。それは天皇において確保された道であり、天皇への忠誠において初めて保障されるので、たとえ自分の命を守るためであっても、天皇の名の下に発せられる命令に背き抵抗する自由は保障されない。もし抵抗する場合には人間と見なされない。

つまり、ここで言う平等や人権は、個人の自由なき平等であり、欧米の抵抗権に支えられた自由の理念と本質的に異なる「天皇型人権」とでも言えるものなのだ。

現代メディア

長文ですが、ナルホドと思える部分が多かったので転載しました。

欧米の人権意識と日本の人権意識の何かが違う原因が、こういう歴史的な展開によって生まれてきたのかと思うと納得もいきそうです。

さて、根性論と人権意識については特にこれといった因果関係は見つけられなかったのですが、日本の人権意識が歴史的にこういう流れで根付いてきたとすると、現状の虐待や弱い者いじめを取り巻く環境の根底に、個人としての人権というよりも全体を見たときにどうなのか、という部分が強く守られているような感じがする事に説明がつくような気もします。

介護現場の虐待

僕自身は、介護現場での虐待については、全てが弱い者いじめだと考えています。

介護が必要な方にとって、我々介護職は圧倒的な権力者です。

それを自覚してか自覚してないかは別として、おそらく現場の介護職は自分が強い権力を持っている事を肌で感じているはずです。

組織心理学の研究が明らかにしていることは、地位やそれに伴う権力を手にした人の多くが、

・他人をコントロールする権力を失わないように努める
・部下が利己的に動くのは嫌うが、自分自身は、地位を揺るがされるような事態に敏感で、自己利益に走る

という傾向にあることです。

あなたの上司は、どんなふるまいをしていますか。上司が強いプレッシャーを受けているとき、どんな仕事ぶり、采配ぶりですか。部下に何と言いますか。

それが、あなたの上司の本性です。

このような上司という権力を持った人間の心理を踏まえたならば、正論が忌み嫌われることも理解できるでしょう。

権力が自分の手中にあると感じているリーダーは、優秀なサブリーダーに対して、頻繁に指示を出し、難しい課題を与え、圧力をかけることで権力を行使し、成果に対する貢献度を低く評価することが明らかになっています。[2]

社会心理学者のデービッド・キプニスたちは、この現象に「権力の腐敗(power corrupt)」と名づけ、権力者たちが堕落していく姿だとしました。

「権力の腐敗」が起こっているときには、「行動接近システム」が優位になるため、通常よりも報酬や目標に向かって行動すると考えられています。

そして、ここで言うリーダーの報酬や目標とは、権力を行使し続けることなのです。

DIAMONDオンライン

これ、チームリーダー向けの記事なんですけど、介護現場の介護職を権力を持ったリーダーとしてあてはめ、部下を利用者さんにあてはめるといろいろ見えてくる状況があります。

結局、有史以来人類というのは権力を持てば腐敗するという歴史を繰り返してきました。
それは、一国の君主や大帝国の皇帝になるような優秀であり天才や英雄であっても同じなんです。

そうであれば、一般人の介護職がそのような権力を持ち、それが長期間の権力の維持という環境になったときにどうなっていくのかは想像できるような気がしますし、虐待がなくならない理由の一つのような気もします。

しかし、ここで介護職側の人権と利用者側の人権がぶつかります。
最近は介護職側の人権も守られる配慮はされていますが、だからといって虐待が許されるわけではないのです。

忙しいから、人が足りないから、賃金が安いから・・・
様々な理由は出てきそうですが、虐待はしてはいけません。
相手が援助が必要な方なんですから当然です。

このあたりは、ハラスメントの問題と虐待の問題として明確にして対応した方がいいかもしれません。

職員を守るのは会社・事業所。
利用者さんを守るのは職員。

もっというと利用者さんは日々の介護にかかるサービスに対して対価を支払っていますので、お金を払ってまで虐待行為を受けるなんて構造は絶対にあってはならないものだと思います。

ちなみに認知症の方の行動についてはハラスメントに該当しないという事が明確に示されています。

要は、認知症の方に対してわざと危ない言動をさせて職員へのハラスメントだというような卑劣な方法でサービス利用を断ったりする事はできないという事です。現にこういう行為をする現場職員を少なからず見知っているから記載しました。自らの理解不足やスキル不足によって引き起こされた行動に対して暴力を受けたなどあってはなりません。
しかし、このあたりの線引きは本当に難しいし見極めは困難を極めますので、僕自身は僕自身がその方との対応の中でどうだったかを何度も実践してみた上で判断します。
ですので、対応が難しい認知症の方へのケアについては、対応を許可する職員と許可しない職員は存在しました。それは、職員も利用者さんも守るための判断でしてきました。
しかし、それでも全く対応させないと職員の成長の機会も奪ってしまうので、そのあたりはちゃんと職員を守れる環境下で実践経験を積んでもらう工夫はしましたが、それも今後の人手不足の状況の中では難しくなるだろうなぁと思っています。

ですので、なおさら現場職員には高いスキルがいきなり求められてしまうような状況になっていきそうですし、そうなれば虐待だって増えていきやしないかと不安になってしまいます。

職員向け研修のための手引き
(三菱総研研究所 ヘルスケア&ウェルネス本部)

000947395.pdf (mhlw.go.jp)
↑ PDFへの直リンクです。

認知症の方の行動については、ハラスメントではなく医療的なケアでアプローチせよ

まとめ

さっぱりまとまってませんが、とりあえず弱い者いじめはカッコ悪いよね、という事です。

おじいちゃんやおばあちゃん、食事をとるにもトイレにいくにも介助が必要な弱い立場の人に対して、何がどうなっていじめるような対応ができるのでしょうか。

忙しいから、人手が足りないから・・・
理由はいろいろあるでしょうが、それは言い訳でしかないですし、だからといって多くの介護職がちゃんと対応しているんです。ちゃんと丁寧に親切に。

それに、忙しいからいいだろう、人手がたりないから仕方ない・・・
そう思い込んでしまったらそれで終わりですよね。

スラムダンク

出来ないかもしれない。
だけど、やる前から諦めるのはちょっと違うと思います。

とことん考えて、足りない人手の中で出来るだけの対応と対策をして、それでも無理だった、もしそうだったなら、利用者さん本人にもその気持ちが伝わる言い方や言葉が溢れてくるはずです。

そこまでやってますか。
というのを常に自分に問い続けて欲しいし、それが出来れば、きっと虐待も減っていくと思いました。

いずれにしても、どうやって少しでも足りない人での中で人権を守った上でQOLを高めていけるかを考えて行動しなければなりません。

介護保険制度全体を貫く理念

09c_0003.pdf (mhlw.go.jp)

介護保険制度全体を貫く理念として尊厳を守る事が明記されています

介護保険のサービスを提供する以上、この理念を守る前提なんですから、その意味からも虐待なんてことは現場で起こってはならないのです。

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