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火を使うこと、と、生きること

突然ですが、我が家は注文住宅です。
五年前に建てたのですが、大きな過ちをおかしたと思っていることがあります。

それはキッチンをIHにした事です。
個人的な意見ではありますが、やはり直火にはかないません。

そして、この5年の間に我が家は火の虜となったので
尚のことキッチンも直火にすべきだったと思うのです。

とはいえ、庭先で焚き火をして調理したりなんかして
火と付き合っています。
結果それがちょっとしたご近所トラブルになり
「禁じられた(火)遊び」となった訳です。

なんでしょう、焚き火する方ならわかると思うのですが
火って見ていて癒されますよね。
強い炎には圧倒されたりもしますが、それもまた火の持つ力。
落ち着いた火はチラチラと幻想的にそして穏やかに心を癒してくれる
そんな力があるように感じるのです。

そして何より火と人間とは切り離せない関係のように考えています。
火と人間の歴史は相当古いものであるだろうと想像出来ます。
どうやって、人間が火を手に入れたのか、そんなこと考えるとワクワクします。

今はカチッと捻ったり、ピッと押せば簡単に火がつくけれど
初めは一体どうやって火を手に入れたんでしょうか?

火は調理に、灯りに、保温に、様々な役割を果たしては
私達人間の生活を補ってくれます。
それが時に大きな災害を招くこともあります。
そう言えば古事記にあるイザナギとイザナミの話も
火の神様が大きな痛手を負わせてしまった記憶があります。

とは言え火の持つチカラに、人間は随分とお世話になってきています。

なくなったら、どうでしょう。
色々と不便が起きそうです。
電力があるからいいじゃない!といっても
そに電力すら火に頼っている場合があることも否めません。

やっぱり、自分で火を起こせるかどうかという事が
我が家では生きる為に必要な事、として認識されています。

せめて、生活の範囲内、何かあった時には
子供達自身が火を起こせるようであって欲しいと心底思っているのです。

そのため普段から子供達との生活の範囲にも「火を起こす」という作業を組み込んでホームスクリーングをする上でも、大切に考えています。

ちなみに、生活の範囲内とは言っても、後に出てきますが
食べ物に火を通す、暖を取ると言った
生命維持に関わる程度です。

私の中でこれは火の扱いを知る事を意味しています。
どうすれば火が起こせて、何が必要で、扱いはどうすべきか、危険性を含めた扱いの知恵を持っていて欲しいということです。

火を使って営むという行動は現状では人間にしか与えられず、
それがまた人間にとって必要不可欠なエネルギー源であると考えています。

おかしいでしょうか。

こんなにもエネルギーが充足した世界に生きていて、一体なぜそんな原始的な手段を持って有事に備える必要があるのか?と、思うかもしれません。

私は心底「大丈夫だ」、とは思わないのです。

私は専門家ではない為、これは根拠もなければ、説得力にも欠ける自論展開ではありますが、、、。

現在の日々の暮らしを思えば
まさかの事態で電力などが尽きたとき、火が「ない」暮らしよりは、火が「ある」暮らしの方がせめてもの想像がつくのではないかと思います。

すごく単純な話。

先ほどあげたように、火力や電力といったエネルギーが思うように供給され無くなったときを想像します。

例えば魚や肉が手に入ったら
いきなり生で食べますか?

鮮度抜群のお刺身なら良いですね。
でも火力や電力がなければ冷蔵機能も働かないかもしれません。

なんとかさんがどこかで今朝釣ってきた魚だよ!という保証があれば良いですね。

でも、生肉なら、やっぱりいただけません。

まぁ、うちの男たちなら自己責任で食べるでしょうが
私はちょっとイヤです。

やっぱり、せめて焼きたい。
塩はなくても良いから、焼いていただきたい。

暑い時は水浴びしたら良いけれど
寒い時は出来れば陽を浴びたいですよね。
でも冬、いくらなんでも太陽の陽射しだけで保温ができるような
体温調整に優れた生き物ではないのが、私達人間。
やはり暖を取りたいです。

「単純なこと」と思われる事でも
火は欠かせないわけです。

そして確かに単純なことかもしれませんが
この例え話は「生きること」に直結する部分でもあります。

まぁ考えようによっては
私たちは肉や魚を食べるばかりではなく
野菜や果物を頂くこともできるので
肉や魚を食べなければ問題ないかもしれません。

こうして私がいう火力や電力がなくなったら、なんていう例えも、肉魚を食べなければ良いじゃないか、という発想も、極端と言えば極端で論じるに値しない内容かもしれません。

では、結局のところ何が言いたいのか、と言えば
そういった「ライフライン」に関わることに関して私たちはあまりに無頓着で、自意識が足らないのではないかという事です。

用意された、浄水された美味しい水。
そして、ボタンひとつで簡単につくように設定された、火。
電力にも同じ事が言えるように思います。
そして食糧にも。

おおよそ、人任せ。
考える事もしない。

生きるために絶対的に必要なところを人任せにして
当然と思い、いや、思うことすらもなく、ひたすらになんに疑問も抱かず
溢れ出るエネルギー源が未来永劫与えられると思っている。そんな節があるのではないでしょうか。

そういうところに、現代人の脆さを感じます。
かく言う私も、さして変わらぬ同じところにいるのも事実です。

エネルギー源、ライフラインを自己完結で確保しろという話ではありません。

できる事があると言う事を知る必要があると思うのです。

だから我が家では子供達にも火をつけさせます。
小さくても薪を割ったり
吹子を使い炎を起こします。
薪だって、小さな木だって普段から切っていなければ
簡単に作り出したり、切り出したりは出来ないものです。

でもそれは決して難しいことではないのです。
意外と日々の生活の中に少しずつでも組み込める作業です。
そうすれば、それは簡単に出来るようになります。

火は危ない。
火は確かに危ないです。
だからと言って、火の全ての状態が危ない、と言うわけではありません。
何が危ないのか、子供はちゃんと見て学ぶ必要があります。

生活から子供達から火を遠ざけず
いずれかのときには、自分でも火を起こせる事を
知っているだけでも生きるチカラは格段と強くなるはずです。

次男は五寸釘を熱し、叩き、小さな刀を作ることもあります。
それを研いで仕上げます。
薪ストーブをつけることや
囲炉裏を使うこと
七輪で魚を焼くこと。
どれも火を使う楽しい作業です。
そして、どれも同じものはなく、火をうまく扱う必要がある作業です。

思えば、火は偶然の産物だったのでしょう。
私たち人間は古くから火と共にその生活を維持してきたように思うのです。

我が家では煙の様子や頻度を調整しながら
焚き火や火で調理をする事を子供達と共に続けています。

火と共に生きる事。
それは人間だけに与えられた
特別で尊い営みのカタチなのです。



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